藤原忠綱
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藤原忠綱(ふじわらのただつな)
[編集] 藤原忠綱(藤原頼通の子)
藤原忠綱(ふじわらのただつな、生年不詳-応徳元年(1084年))は、平安時代中期の官人。関白藤原頼通の子で、母は藤原祇子。権大納言藤原信家の養子。四条宮藤原寛子(後冷泉天皇皇后)・藤原師実らとは両親を同じくする兄弟であるが、頼通の正室源隆姫と嫡子藤原通房に遠慮して養子に出されたのである。但馬守・近江守・春宮亮などを歴任し、正四位下に至った。応徳元年卒去した。子に長兼・基兼・真覚がいた。
[編集] 藤原忠綱(藤原忠清の子)
藤原忠綱(ふじわらのただつな、生年不詳-寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武士。上総介藤原忠清の子。平氏政権の有力家人の一人。平景清らの兄弟。
治承3年(1179年)11月、平清盛のクーデター(治承三年のクーデター)に伴う除目により左衛門少尉に任ぜられ、検非違使宣旨も受けた。翌年5月、平氏追討の兵を挙げた以仁王・源頼政の追討(以仁王の挙兵)にあたって源兼綱らを斬り、その勲功により従五位下に叙位され、それ以後、上総大夫判官と呼ばれた。寿永2年(1183年)源義仲の追討にも参加したが、倶利伽羅峠の戦いで戦死した。