藤井甚太郎
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藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月 - 1958年7月)は、日本の歴史学者。
[編集] 略歴
旧福岡藩士藤井一寛の長男として福岡県福岡区荒戸町(現・福岡市中央区荒戸)に生まれる。中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1909年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業する。なお、大学卒業論文である『筑紫辺防考』では邪馬台国を肥後国内に論究している。同大学院に進み徳川季世史を専攻。『徳川慶喜公伝』の編纂所に入り、渋沢栄一の知遇を得たが、1914年、同郷の金子堅太郎が副総裁をしていた文部省維新史料編纂会事務局に招かれて移る。それ以後、維新史料の編纂に従事すること30余年、修史の功により従三位の勅任官に叙せられている。その一方で1924年、吉野作造を初代会長とする明治文化研究会に宮武外骨・石井研堂・尾佐竹猛・石川巌・小野秀雄・井上和雄らとともに参画し、『明治文化全集』を刊行、日本史籍協会叢書の校訂編集を分担する。
戦後は開国百年記念文化事業会常務理事に就任し、『明治文化史』、『日米文化交渉史』の出版を手がける。傍ら教育にも情熱を注ぎ、1945年、実践女子大学の前身である実践女子専門学校・実践高等女学校・実践第二高等女学校の校長に就任。1949年、法政大学教授となり同史学科の基礎を築いた。1958年4月同名誉教授となる。日本歴史地理学会会長にも就任している。
著書は『明治維新史講話』(1926年)、『日本憲法制定史』(1929年)などがある。