葵祭
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葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさした。
石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。 京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。
葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。斉王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤めるシーンが印象的である。大気の不安定な時期に行なわれ、にわか雨に濡れることが多い。
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[編集] 前儀
さまざまな前儀が行われるが、中でも流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が有名である。糺(ただす)の森の真中にある全長500メートルの馬場(ばば)を、公家風の装束姿や武家風の狩装束姿の射手(いて)たちが疾走する馬上から、3つの的を射抜くというものである。 「矢伏射馬(やぶさめ)」とも書かれる流鏑馬は、その文字が示すように矢を射ること。馬を走らせながら正確に的を射抜く高度な技術が必要とされるため、人気の行事の一つである。
雄略天皇の即位の年(457)、「騁射(うまゆみ)」を行ったと『日本書紀』が伝え、「賀茂祭に民衆を集めて騎射を禁ず」の記事が『続日本紀』にしるされるなど、古い歴史を持つ日本古来の馬術。 射手のかけ声「イン、ヨー」とは「陰陽」のこと。 みごと矢が的中すれば五穀は稔り、諸願は成就すると言い伝えられている。 文亀二年(1502)に中絶したが、昭和48年、下鴨神社式年遷宮の記念行事として復活。「糺の森流鏑馬神事保存会」によって公家装束による流鏑馬が保存・伝承されている。
また、上賀茂神社では競馬会神事(くらべうまえじんじ)などが執り行われる。
[編集] 勅使および勅使代・・・路頭の儀と社頭の儀
5月15日には平安時代の衣装を身にまとった人々が牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで、近衛使(かつては、近衛中将が賀茂祭の勅使として遣わされる慣例があったため。もっとも、現在実際の天皇の使いである勅使は行列には加わらず、近衛使(勅使)代と呼ばれる代行者が行列に参加している。)と、警備のための「検非違使尉」と「検非違使志」といった検非違使庁の官吏と、山城使(やましろのつかい、賀茂神社は、京職の管轄外で山城国の国官の管轄であったため、国府次官の「山城介」を警備と監督にあてた。)、馬寮使(左馬允という左馬寮の官吏を充てた。)、内蔵使(「内蔵助」と「内蔵史生」という天皇の幣帛を管理する内蔵寮の官吏をあてた。)による本列と女人列による路頭の儀(ろとうのぎ)下鴨神社と上賀茂神社において、勅使が祭文を奏上する社頭の儀(しゃとうのぎ)がとり行われる。
路頭の儀(行列を見る)有料拝観席(御所と下鴨神社参道)の受付→京都市観光協会
社頭の儀(儀式を見る)有料拝観席(下鴨神社楼門内)の受付→下鴨神社
[編集] 斎王代
斎王(さいおう)とは、賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された内親王または女王のこと。
現在では京都在住の一般市民から選ばれるので斎王代(さいおうだい)となる。ただし、「一般公募」を受け付ける窓口は存在しない。
唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用、舞台化粧と同様の厚化粧をし、お歯黒も付ける。
また毎年5月4日には斎王代禊(みそぎ)の儀が行われる。 斎王代と女人たちが御手洗池(みたらしいけ)に手を浸し清める儀式で、下鴨神社と上賀茂神社両社で隔年交替で行われる。
[編集] 女人列
斎王代を中心としてその周囲に女童(めのわらわ)、騎女(うまのりのおんな)、采女(うねめ)、女官、等の華やかで可憐な行列が続く。
全員が舞台化粧と同様の厚化粧をするが、斎王代以外はお歯黒を付けない。
[編集] 関連事項
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