菊池千本槍
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菊池千本槍(きくちせんぼんやり)は、太刀洗と共に、菊池氏を表す常套句。
南北朝時代の戦法は、刀によるものが主流で、槍はまだ普及していなかった。南朝方であった菊池氏は新田義貞の指揮下に入り、各所で足利勢と戦う。
建武2年(1335年)11月、箱根・竹ノ下の戦いにおいて菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案。竹藪から各自、手頃な竹を1本2mほどに切らせ、それに短刀を結わえて作らせた。見た事のない兵器に足利勢は大いに苦戦する。結果1,000名の兵で、足利尊氏の弟として知られる足利直義直属の軍を3,000名を敗走させた。
(ただし、足利直義は戦下手として有名である。)
その後、菊池武重は大和国の刀鍛冶・延寿に槍を作らせた。延寿はその後菊池姓を拝領し“菊池延寿”と名乗り、肥後国菊池に移住した。
槍の登場は、その後の戦法に大きな影響を与えた。
現在は菊池神社で見ることができる。
上記の史実を元に、海軍士官の短剣に菊池槍を改造し仕込むことが流行した。精神的・歴史的な意味もあるが、菊池槍が比較的細身で海軍士官短剣の形状に合致したのも理由の一つである。その中でも知られるのが特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の松尾敬宇海軍大尉の逸話であり、同大尉は先祖伝来の菊池槍を携行して攻撃に臨んだ。この松尾大尉の逸話は昭和の戦時中末期のプロパガンダ映画、「菊池千本槍シドニー特別特攻隊」1944大映(菊池寛監督)に流用された。
この逸話について菊池寛は文芸春秋の昭和18年6月号でこう語っている。「熊本へ行ったとき、シドニー攻撃の勇士、松尾海軍中佐の生家を訪問した。お父さんもお母さんも、立派な人であった。松尾中佐は、○年の○月帰省したのが最後であったが、たった二泊の短い帰省であるに拘らず、数里離れている隈府の菊池神社に参拝したそうである。しかもシドニー攻撃には、菊池千本槍を短刀に仕込んで携帯したそうである。菊池千本槍とは、短刀の形をした槍の穂先である。建武二年の暮れ、武時の子、武重が箱根水呑峠で、足利直義と戦ったとき、竹を切ってその先に、短刀を結んで新武器としたという伝説があるが、爾来菊池勢の槍の穂先は、短刀の形をしているのが特色である。」
[編集] 外部リンク
- 太平記・国民文庫本・全巻
- 菅野覚明『武士道の逆襲』
- 久米邦武「鎌倉時代の武士道」
- 髙橋昌明『武士の成立 武士像の創出』
- グーテンベルグプロジェクトの新渡戸稲造 『武士道』(英文)
- 話の屑籠(文芸春秋エッセイ)