荻田長繁
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荻田 長繁(おぎた ながしげ、永禄5年(1562年) - 寛永18年(1641年)?)は戦国時代末期から江戸時代の武将。旧称、孫十郎。(三代目)荻田主馬の名で有名。子に越後国高田藩家老荻田隼人、孫に越後騒動中心人物の荻田主馬がいる。
上杉義春の組下の武将で、御館の乱に於いて上杉景虎派に属する北条景広を槍で刺殺。重鎮であり猛将であった景広が討ち取られた事もあり、景虎派は寝返り・離散が相次いだ。その事により組織だった戦略が取れなくなった景虎派の勢いは完全に消え、景勝の勝利を早める事に貢献した。また、猛将の名を轟かせていた景広を討ち取った者として自らの名前が知れ渡る事となる。
その後は上杉家を自ら離れ、豊臣秀次の誘いで仕官するも扱いが悪く、ここも自ら豊臣家を去る事となる。
次に剛の者を次々に抱えて行った越前の結城秀康(徳川家康の次男)に仕える。この仕官に関しては家康が結城家家老の本多冨正を呼び出してまで『主馬を小身のまま召抱えるのは秀康の不覚の極み』との思いを語った為に1万石の高禄で召抱える事になったと言う。
秀康の死後はその嫡子である松平忠直に仕え、大坂冬の陣・夏の陣共に参戦。この戦での功により2万5千石に加増、それとは別に家康から茶壷・杯・小袖が贈られる。なお、杯と小袖は後に子孫が川崎市の明長寺に託し現存しており、小袖は重要文化財に指定されている。
忠直が素行不良により配流となり、忠直の子松平光長が家督を継ぐも越後高田藩へと国替えになった事により長繁も越後に戻る事となり、清崎城代を勤める。