荒川義広
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荒川 義広(あらかわ よしひろ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。三河国の豪族吉良氏の一族。甲斐守を称した。妻は徳川家康の異母妹・市場姫。
- 「西尾市史2 古代中世近世上」1974年には、義広の異名として次の6つが記されている(204項)。
義広(「寛政譜」、不退院所蔵文書など) 義弘(「士林泝洄」、真成寺所蔵文書など) 頼持(「柳営婦女伝系」、「三河国二葉松」、「参河志」など) 義等(「三州本願寺宗一揆兵乱記」など) 義虎(「家忠日記増補」など) 頼時(「西尾草創伝」)
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[編集] 経歴
東条城主吉良氏の当主吉良持清の次男として生まれる。東条吉良氏の家督は兄持広が継いだため、義広は別家荒川氏を興した。永禄4年(1561年)家康による東条城主・吉良義昭攻めに協力し、その軍功により市場姫を娶ることになったという(「寛政譜」新訂2巻「吉良」)。しかし永禄6年の三河一向一揆の際には、吉良義昭と共に一向衆の側について家康軍と戦った。一揆軍は敗北したため、吉良義昭は近江国へ、荒川義広は河内国へ亡命を余儀なくされた。 その後の消息については、河内において病没したとの所伝が「三河物語」第2中、および「松平記」巻2に記されている。また一説に八面城を放棄した後、吉良荘寄近村(愛知県西尾市)に蟄居し、永禄9年(1566年)9月22日に没したとの「三州本願寺宗一揆兵乱記」[1]の記事があるという(「参河志」17巻「幡豆郡」八面村の項)。また死因と没年については以下の異なった所伝がある。
[編集] 墓所と法名および没年
墓所と法名および没年の所伝は以下のとおり(「西尾市史2 古代中世近世上」に拠る。197項より200項)。
- 愛知県西尾市八ツ面町の真成寺。五輪塔の下部が現存し「荒川氏」「仙林院殿之墳」と刻まれている。仏林院殿前甲斐刕太守、永禄8年8月28日卒。
- 同・寄近町の法厳尼寺。五輪塔および宝篋印塔が現存。前掲「参河志」掲載の所伝では、その法名を仙林院花山洞栄居士と記し、同17巻「幡豆郡」寄近村の項には「荒川甲斐守頼持」父子の墓ありとしている。
- 同・上道目記町の不退院。ここは市場姫の墓所ともなっており、墓と位牌がある。寺記によると同地における戦闘により、永禄10年9月29日戦死したという。
- 夫妻の葬儀はここで営まれ、法名は不退院殿智空上衍大居士で、その位牌が安置されている。また義広は菩提所である不退院の再建に尽力し、功績を残した城主として寺記にその名を残している(この部分につき「西尾市史」未掲載)。
[編集] 義広の子
尾張藩家臣の荒川氏は彼の子孫といわれる。「士林泝洄」巻37「荒川」には、彼の子として次の3名が掲げられている。
- 弘綱 次郎九郎。家康に召し出されて3000石を与えられ、その命により穴山梅雪の娘を娶り、その家督を継いだ。嗣子なく、そのため松平定綱を養子とした。慶長4年伏見において没したが(「寛政譜」新訂1巻「久松松平」299項)、その後、定綱は松平に復したため絶家となる。
- 家儀 平右衛門。兄「弘綱」とおなじく召し出されて1500石を与えられ、松平忠吉に付属せられる。慶長5年(1600年)武蔵国・忍城下において没した。その子・三郎九郎「弘秋」は徳川義直に仕え、子孫は尾張藩士となっている。
- 女子 松平金弥の妻。