自明
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自明(じめい)とは、証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されること。ただし、必ず正しいことが保証されるものではない。
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[編集] 概説
こういった問題においては、主観的視点(客体)という部分を含み、何が自明であり何が自明でないかは、個人の感覚によって差があるため、より客観的な記述が求められる場合に於いて、より厳密な定義を必要とする。
- Wikipediaの記事においても、「自明」という言葉は可能な限り使用を避けるよう呼びかけられている。(Wikipedia:中立的な観点等を参照)
[編集] 見たまま
自明には、例えば「見たまんま」であったりすることが挙げられる。言うなれば「空や海が青く、雲が白いこと」や「地面が平たいこと」などがこういった範疇にあるが、逆にそれらは科学的に厳密にいうと正しくない。空や海が青く雲が白いことは光の性質中における拡散など様々な条件があってのことで、地面=地球である以上は、数学的な概念としての「完全な平面」ではない。
[編集] 関連項目
[編集] 常識
いわゆる常識などもこれにあたる。 経験は個人に内在する情報によって導かれる暗黙知の一種だが、これらは概ね生活環境を同じくしている者にとっては、似通った経験が内在する。例を挙げれば、「煮えた湯に手を突っ込むと熱く、やけどをする」は多くの人が経験しているため、幼児を除けば煮えた湯に手を突っ込まないようにするのが当然である。しかし先天的に痛覚を持たないものや、生まれてこの方煮える湯を見たことが無い者にとっては、「煮え滾る湯に手を入れないこと」は自明のことでは無い。
[編集] 関連項目
[編集] 自明の理
「自明の理」という言葉がある。推論は論理学の範疇であるが、説明しなくても当然至極の結論として導き出されるものが「自明の理」である。
例えば「AはBではない」という命題が在る場合に、「BはCである」として、「AはCでもない」は自明の理である。
もう少し適用範囲を広げ具体的な例を挙げると、「自動車の運転をしている際、前(進行方向)を見ていないと危険である」は自動車の性質の上で運転免許を持つ者には説明の必要が無いくらい当然の理屈である。同時に「運転中によそ見をすることは危険である」も同じく自明の理であり、「運転中に携帯電話でメールの遣り取りをすることも危険な行為である」も、やはり説明する必要もないくらいに当然至極の結論といえる。
[編集] 自明と真
しかしながら、自明であることは、それが真であることを保証するものではない。
例えば常識は文化に依存する。文化が異なれば判断は異なり得るが、このことは往々にして忘れられ、文化の異なる集団の対立の元となる。
化学の分野でもそうである。ガリレオ・ガリレイ以前には、重いものほど早く落ちるのは自明と考えられていた。実際に空気中ではこのことは往々にして間違いではない。したがって、これが物理法則ではないことを示すには多くの努力を要した。
また、数学では、ユークリッドはいくつかの公準や公理の元にその幾何学の大系を築いた。その際、彼はこれらを自明のものとして取り扱ったが、それが本当に自明であるかの判断を追求することから非ユークリッド幾何学が発展した。現在では公理や公準はその理論を成立させるための仮説であると考えられる。