耽羅
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耽羅 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 탐라、탐모라、둔라 |
漢字: | 耽羅、耽牟羅、屯羅 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
たんら、たんもら、とんら |
片仮名: (現地語読み仮名) |
タムナ、タンモラ、トゥルラ |
ラテン文字転写: | Tamna,Tammora,Dulla |
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耽羅(たんら)は朝鮮の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀始め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅、屯羅[1]などとも表記される。
目次 |
[編集] 歴史
耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓穴の伝説[2]もあるが、歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡[3]が初見であり、韓族とは言語系統を異なるものとするのが通説である。(これには異説もある。)
『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し[4]、498年に百済の東城王に服属した[5]とあるように、498年以後は百済に朝貢していた。しかし660年百済が唐軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。662年には新羅に服属したとみられる[6]が、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。
当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主(ピョルチュ、별주)または星主(ソンジュ、성주)、王子(ワンジャ、왕자)、徒内(トネ、도내)と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。
935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、938年には高麗に服属した。高麗は1105年に耽羅郡を設置し、1121年には済州と改称したが、星主、王子など旧来の支配者の称号は認めていた。元は高麗を制圧すると1274年に耽羅を直轄地にして牧場を置いたが、1294年に高麗に返した。
高麗に代わった李氏朝鮮は、1404年に星主、王子などの伝統ある称号を廃止し、1416年には済州牧使の下に県も設置した。これより内地(韓国では陸地という)と同様の地方支配体制となった。
[編集] 略年表
なお、ここの月は旧暦表示である。
- 梁職貢図に百済の附庸国で下枕羅
- 660年6月 百済滅亡
- 661年5月 王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った。[8]
- 662年2月 新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった。(『三国史記』)
- 665年8月 日本へ使者を送って来朝した。[9]
- 666年1月 王子の始如らを日本に派遣して朝貢した。[10]
- 667年7月 佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。[11]
- 669年3月 王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した。[12]
- 673年6月 王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した。[13]
[編集] 脚注
- ^ ほかに、州胡(チュホ)、渉羅(ソムナ)、純羅(スルラ)、度羅(トラ)という表記も見られる。
- ^ 『高麗史』地理志2(耽羅縣)による。日本の使いが来て開国させたことなどを伝えている。下部に伝説にかかる部分を引用する。なお、成立時代未詳の『瀛州誌』には、同様の伝説を記すが、「我是日本國使也」に相当する箇所が「我東海上碧浪國使也」となっている。
- ^ 『魏書』巻30烏丸鮮卑東夷伝:又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髡頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,市買韓中。
- ^ 『三国史記』26百済本紀4(文周王2年4月条):耽羅國獻方物。王喜拜使者爲恩率。
- ^ 『三国史記』26百済本紀4(東城王20年8月条):王以耽羅不修貢賦親征至武珍州。耽羅聞之遣使乞罪乃止。耽羅即耽牟羅。
- ^ 『三国史記』6新羅本紀6(文武王2年2月6日条):耽羅國主佐平徒冬音律【一作津】來降。耽羅自武德以來臣屬百濟。故以佐平爲官號。至是降爲屬國。
- ^ 『日本書紀』19継体天皇2年12月 南海中耽羅人初通百済国。
- ^ 『日本書紀』26斉明天皇7年5月丁己条 耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。
- ^ 『日本書紀』27天智天皇4年8月条 耽羅遣使来朝。
- ^ 『日本書紀』27天智天皇5年春正月戊寅条 是日耽羅遣王子始如等貢獻。
- ^ 『日本書紀』27天智天皇6年7月己巳条 秋七月己未朔己巳。耽羅遣佐平椽磨等貢獻。
- ^ 『日本書紀』27天智天皇8年条 己卯朔。己丑(3月11日)耽羅遣王子久麻伎等貢獻。丙申(3月18日)賜耽羅王五穀種。是日王子久麻伎等罷歸。
- ^ 『日本書紀』29天武天皇2年閏6月壬辰条 耽羅遣王子久麻藝都羅宇麻等朝貢。
『高麗史』巻57地理志2(耽羅縣)
- 初無人三神人從地湧出今鎭山北麓有穴曰毛興是其地也長曰良乙那次曰高乙那三曰夫乙那三人遊獵荒僻皮衣肉食一日見紫泥封木函浮至東海濱就而開之內有石函有一紅帶紫衣使者隨來開函有靑衣處女三人及諸駒犢五穀種乃曰我是日本國使也吾王生此三女云西海中岳降神子三人將欲開國而無配匹於是命臣侍三女而來宜作配以成大業使者忽乘雲而去三女以歲次分娶之就泉甘土肥處射矢卜地良乙那所居曰第一徒高乙那所居曰第二徒夫乙那所居曰第三徒始播五穀且牧駒犢日就富庶十五代孫高厚高淸高季昆弟三人造船渡海泊于耽津蓋新羅盛時也于時客星見南方太史奏曰異國人來朝之象也及厚等至王嘉之稱厚曰星主以其動星象也令淸出袴下愛如己子稱曰王子又稱其季曰徒內邑號曰耽羅以初來泊耽津而朝新羅也各賜寶蓋衣帶而遣之自此子孫蕃盛敬事新羅高爲星主良爲王子夫爲徒內其後服事百濟除星主王子之號以其爲佐平使者爲恩率及羅濟亡耽羅國主見太子未老朝高麗太祖因賜星主王子爵瑞山