練馬城
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練馬城(ねりまじょう)とは、現在の東京都練馬区向山にあった室町時代の城である。
[編集] 歴史・沿革
練馬城は14世紀後半から15世紀前半に成立したと推定され、豊島氏の一族が領した。城の起源は、もともと豊島氏の支族である練馬氏が練馬の地に居館を営んだものであるといわれている。
豊島氏は文明8年(1476年)に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。翌年、両上杉方の太田道灌は豊島泰経と戦って勝利し(江古田・沼袋原の戦い)、豊島一族が立てこもった石神井城を落城させた。練馬城については記録がないが、このとき太田道灌の攻撃によって陥落したと考えられている。
現在城跡の中心部はとしまえんの敷地になっていて、遺構はほとんど残っていない。東京都指定旧跡。
[編集] 構造
練馬城は、石神井川の南岸に位置する丘陵を利用して築かれた城である。城地は石神井川に流れ込む湧水が形成した侵食谷によって東西を刻まれ南北に伸びた舌状の台地を利用している。台地を東西に断ち切る石神井川の急崖をもって城の北の守りとしており、台地続きの南側を防御正面としていたと推定される。
台地で見通しが良いことから、太平洋戦争中は、城址に練馬監視哨(軍事施設)が設置された。
城を囲むように土塁と空掘が築かれていたとされるが、遺構は地表にはほとんど残っていない。昭和54年(1979年)、道路改修に伴う緊急発掘調査により、空掘の一部が確認されている。特にとしまえんの外では、住宅街中の地形の起伏から空掘の存在をうかがわせるのみである。