総量規制
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経済政策としての総量規制(そうりょうきせい)は、1990年3月に当時の大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導。大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」のうちの不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることをいう。行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させることを目的とする政策であったが、想定以上の急激な景気後退(いわゆるバブル崩壊)をもたらす要因の一つとなった(なお、バブル崩壊の兆し自体は、総量規制の通達以前に生じていた)。この時の大蔵省銀行局長は土田正顕。土田自身は総量規制に反対していたともいわれているが、当時の大蔵大臣だった橋本龍太郎、さらに、後の総理大臣の宮沢喜一に強く実施を迫られて打ち出された政策だったという。
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[編集] 内容
- 不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える(総量規制)
- 不動産業、建設業、ノンバンク(住専含む)に対する融資の実態報告を求める(三業種規制)
- しかし、不動産向け融資は住宅金融専門会社を対象とせず、また、農協系金融機関は対象外とされたため農協系から住宅金融専門会社、そして不動産投資へと資金が流れることとなった。その結果、住宅金融専門会社の不良債権問題悪化へとつながった。
[編集] 当時の評価
バブル崩壊後に金融機関の破たん処理を行った、元大蔵省銀行局長西村吉正によると、総量規制が出された当時は、なぜもっと早く実施しなかったとの批判はあっても、なぜ実施したとの批判は、あのころの状況を知るものからすると理解しがたいとのことである。新聞論調でも「景気に配慮、尻抜けも」(日経)、「地価抑制の効果は疑問」(東京)などの批判はあったが、厳しすぎるとの批判は無かったと思う、とのことである。[1]
[編集] 解除
- 1991年春ごろには、不動産業界から緩和を求める要望が出始めた。また、同年9月の国土庁の地価動向の調査結果では地価は横這い、または微減の状態になった。大蔵省銀行局内でも解除が検討されだした。そこで、当時の地価動向調査は半年に一度だけであったが、政府は臨時の地価調査を行い、同年11月にも地価は横這い、または微減との結果を得た。その結果、同年12月20日に解除された。[2]
- 大蔵省銀行局内で解除を検討しはじめた当時、マスコミの論調は、「地価バブルを完全につぶそう」(朝日)、「居座り許せぬバブル地価」(毎日)、「地価対策の手綱を緩めるな」(読売)、「地価は落ち着いても楽観できない」(日経)、「なにゆえ慌てる金融緩和」(東京)「地価抑制対策の緩和はまだ早い」(日刊工業)であった。また、解除後のマスコミの論調も、厳しいものがあった。[3]
[編集] 脚注
[編集] 映画
東宝配給映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』はこの総量規制がテーマとなっている。