紫の上
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紫の上(むらさきのうえ)は、紫式部の古典『源氏物語』のヒロイン。架空の人物。
始め紫の君、後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれる。なお「若紫」は第5帖の題名であり作中には出てこず、他には『紫日記』に「左衞門のかみあなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ」(藤原公任が酔って式部のいるあたりを「私の若紫おいでですか?」といいたまう)とあるのみである。俗には紫の上の幼少期をさす。「紫」の名は古今集の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」に因み、光源氏の「永遠の女性」である藤壺の縁者(紫のゆかり)であることを婉曲に表す。また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。
父は兵部卿宮(後に式部卿宮、桐壺帝の先帝の皇子)、母は按察使大納言の娘。藤壺の姪にあたる。「若紫」の帖に初めて登場し、以後「御法」まで登場する。
正妻による圧力のために父兵部卿宮の訪問は間遠で、生まれてすぐ母は亡くなり、その後は祖母の北山の尼君に育てられた。大伯父僧都によると母親が亡くなって10余年たち、北山に病気療養に来ていた光源氏に垣間見られる。このとき源氏は、幼いながらもその藤壺と生き写しの容姿に一目で惹かれ、藤壺の姪であることを知るや執着をもつようになる。祖母の死後、父に引き取られるはずであった若紫を略取した源氏は、二条院において、周囲には彼女の素性を隠しながら理想の女性に育てる。(「若紫」) 光源氏の最初の正妻である葵の上の没後に、源氏と初床となり以後公に正妻同様に扱われる。(「葵」) 以後は光源氏の須磨退隠時期を除き、常に光源氏の傍らにあった。
紫の上が妻として扱われるようになって初めて、父兵部卿宮にも、行方不明であった娘が源氏のもとにいることが知らされた。兵部卿宮はこれを歓迎したが、源氏が須磨に隠棲したときには右大臣の権勢を恐れて紫の上を支援しなかった。このため源氏は帰京後は兵部卿宮を冷遇する事になる。紫の上には子供がなかったため、源氏は明石の君が生んだ女の子(のちの明石中宮)を紫の上の養女とし、将来の后候補として育てさせた。(「薄雲」) また明石中宮の入内後には、中宮の産んだ女一宮と三の宮(匂宮)を養育している。夕顔の娘玉鬘が六条院に来たときは27~28歳のころであった。
光源氏に誰よりも愛された最愛の妻であったが、複雑な気持ちで光源氏の女性癖を見続けた。特に六条院に移ってからは、他の女性と源氏の関係にたびたび嫉妬しつつも、源氏にはそれを表さなかった。六条院の春の町の主として「春の上」と呼ばれ、容貌も心ばせも完璧な女性と謳われ本人もそれを誇りに思っていたが、唯一の弱みであった子もなく正妻でもないことに着目して、朱雀院の女三宮の降嫁が決まったときには衝撃を受け、自分の身の不安定さに改めて気付かされる。その心労から37歳の厄年に重病にかかり(「若菜」)、晩年には出家したい心境をもらすこともあったが、最後までそれを許されぬまま光源氏に先立って病没する。(「御法」) 彼女の完璧さを頼りに安堵しきっていた源氏は、彼女が隠してきた苦悩と孤独を痛感し、今までの思い出を灰にするのであった。(「幻」)