範多龍太郎
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範多龍太郎(はんたりゅうたろう、1871年 - 1936年11月10日)は、日本人実業家で造船技術者でもあり日本の造船の近代化を開拓した。
1871年、イギリス人実業家E・H・ハンターと平野愛子の間に生まれ、平野龍太郎として日本の戸籍に入る。龍太郎は神戸一中、神戸商業講習所を卒業後、ドイツのオーデルキルヘン中学に留学し、さらにスコットランドのグラスゴー大学で造船工学と土木工学を修めて明治26年(1893)に帰国。その直後、係累の途絶えていた範多才助なる戸籍を紹介され、その年明治26年12月31日付けで範多姓を継承して、範多龍太郎と改名。平野姓を名乗っていた弟妹たちも範多姓に改められた。旧範多家は河内の元与力の家柄だった。その後、『E・Hハンター商会』も合名会社『範多商会』と改称して、範多龍太郎が経営を引き継ぎ、明治28年には『大阪鉄工所』の所主にも就任して、経営の近代化に取り掛かかる。
子に、慶應義塾大学体育会ソッカー部の創設に関与したとされる範多龍平がいる。