秋月種茂
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秋月 種茂(あきづき たねしげ、寛保3年11月30日(1744年1月14日) - 文政2年11月6日(1819年12月22日))は、江戸時代中期の大名。日向国高鍋藩の第7代藩主。第6代藩主・秋月種美の長男。米沢藩主で名君と呼ばれた上杉鷹山の兄に当たる(ちなみに種茂は鶴山と号している)。正室は松平明矩の娘。子に種徳、黒田長舒。官位は従五位下。山城守。
上杉鷹山の兄に当たるだけあり、種茂も名君であった。宝暦10年(1760年)7月8日の父の隠居により家督を継ぐと、即座に藩政改革に臨んだ。改革に必要なものは人材登用であると考え、安永7年(1778年)に藩校明倫堂を創設。このとき、種茂は藩校に通える者を武士だけに限らず、民百姓に対しても開いた。この明倫堂からは、明治時代に活躍する多くの人材(三好退蔵、秋月左都夫、石井十次)が出ている。また、財政再建政策を行ない、財政を再建した。
天明8年(1788年)11月6日、家督を長男の秋月種徳に譲って隠居したが、なおも実権は握り続けた。文政2年(1819年)11月6日、77歳で死去。
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