石光真清
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石光 真清(眞清)(いしみつ まきよ、1868年10月15日(慶応4年8月30日) - 1942年5月15日)は、日本陸軍の軍人(最終階級:陸軍少佐)、諜報活動家、大陸浪人。幼名は正三。明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した。
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[編集] 年譜
- 1868年 - 現在の熊本市本山町に熊本藩士 石光真民 守家(もりえ)の4男としてうまれる。父・真民は産物方頭取を務めていた。[1]
- 1883年 - 商人になろうと決心し商法講習所(現・一橋大学)入学(のち退学) 陸軍幼年生徒隊(幼年学校)入学
- 1886年 - 陸軍幼年学校卒業 陸軍士官学校進学
- 1889年 - 陸軍士官学校卒業(旧11期) 近衛師団歩兵第二聨隊付(少尉)勤務
- 1891年 - 大津事件に遭遇 ロシア研究を始める
- 1895年 - 日清戦争で中尉として台湾に出征
- 1896年 - 歩兵第九聨隊付 ロシア留学を許可される
- 1897年 - 幼年学校教官 第九聯隊付(大尉)
- 1898年 - 参謀本部付
- 1899年 - 6月より休職、8月より私費渡航 留学地はブラゴヴェシチェンスク ロシア軍人の家庭に寄寓
- 1900年 - 8月任参謀本部付、露国差遣
- 1901年 - 特別任務のため12月予備役編入 ハルピンに洗濯屋や写真館を経営 ロシア軍の御用写真師になる
- 1904年 - 日露戦争はじまる 3月召集をうけ出征(第二軍指令部副官)、10月遼東守備軍付、11月得利寺兵站司令官・第2軍管理部長
- 1906年 - 5月関東都督府陸軍部付通訳
- 1906年 - 召集解除、復員 戦後一時期東京世田谷村三等郵便局長となる
- 1907年 - 日清通商公司長春支店長
- 1908年 - 会社解散 帰国
- 1909年 - 東京郊外世田谷村郵便局長
- 1915年 - 満州錦州府に満豪貿易公司会社経営
- 1917年 - ロシア革命勃発 12月関東都督府陸軍部嘱託、アレクセーフスクニ付近に駐在し諜報勤務に従事
- 1918年 - 召集されシベリア派遣軍司令部付、アムール政府付 シベリア出兵ロシア革命の動乱の中で、命がけの活動をする
- 1919年 - 6月召集解除、関東軍嘱託(~1921.8)、 貿易公司破綻、錦州に特務機関設置
- 1921年 - 朝鮮人の満州移住水田開発事業、朝鮮協会設立などに従事 後備役満期
- 1924年 - 会社を放棄し帰国 隠棲
- 1942年 - 死去
[編集] 家族 親族
- 父・石光真民(熊本藩士・産物方頭取)
- 兄・真澄(三井物産社員、恵比寿麦酒支配人)、安熊
- 弟・真臣(軍人・陸軍中将)
- 妹・真津(岡山県,実業家橋本卯太郎に嫁する)[2]
- 妻・辰子(軍人菊池東籬長女)
- 息子・真人(まさと、真清の手記を編纂)
- 娘・菊枝(奈良県,法学者東季彦に嫁する)
- 孫・東文彦(作家)
- おじ・野田豁通(軍人)、栃原知定(教育者)
- いとこ・下村孝太郎(学者、実業家)、林田亀太郎 (政治家) 、浮田和民(学者)
[編集] 系譜
- 石光氏
東季彦 ┏栃原知定 ┃ ┃ ┏石光真澄 ┣━━━東文彦 ┗守家 ┃ ┃ ┃ ┣石光真清━菊枝 ┣━━━━┫ ┃ ┣石光真臣 ┏石光真民 ┃ ┃ ┗真津 ┃ ┃ ┗野田豁通 ┣━━━橋本龍伍━┳橋本龍太郎 ┃ ┃ 橋本卯太郎 ┗橋本大二郎
[編集] 著書
- 『城下の人』(中公文庫、1978年) ISBN 4-12-200550-7
- 『曠野の花』(中公文庫、1978年) ISBN 4-12-200582-5
- 『望郷の歌』(中公文庫、1979年) ISBN 4-12-200602-3
- 『誰のために』(中公文庫、1979年) ISBN 4-12-200689-9
[編集] 演じた俳優
- 仲村トオル「BSドラマスペシャル・石光真清の生涯」
[編集] 脚注
- ^ 『城下の人』17頁 - 石光家は身分の軽い武士であったが、細川家が肥後入国の時からお供をした家柄であり、代々殿のお側に奉仕していたから特別の取り扱いを受けていた
- ^ 卯太郎、真津夫妻の孫に政治家の橋本龍太郎(元首相)、橋本大二郎(高知県知事)兄弟がいる