相馬盛胤
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相馬 盛胤(そうま もりたね)
[編集] 相馬盛胤 (大膳大夫)
相馬 盛胤(そうま もりたね、文明8年(1476年) - 大永元年(1521年))は戦国時代の武将。陸奥相馬氏第13代当主。第12代当主相馬高胤の子。相馬顕胤、堀内近胤、相馬胤乗らの父。孫太郎。定胤。大膳大夫。
明応元年(1492年)、父の高胤が標葉氏との戦いのさなか陣没したため跡を継いだ。家督継承後、標葉氏を滅亡させ標葉郡を支配下におさめ、行方郡、宇多郡とあわせ三郡を支配し、陸奥相馬氏が戦国大名として飛躍する基礎を築いた。上洛し官位を与えられるなど領国支配の安定に努める一方、婚姻政策にも積極的で、自身は蘆名氏の娘を娶り、近隣の伊達氏が台頭すると嫡子の顕胤の妻に伊達稙宗の娘を迎えている。1521年没し(ただし没年には諸説ある)、家督は子の顕胤が継承した。下記の盛胤は嫡孫にあたる。
[編集] 相馬盛胤 (弾正大弼)
相馬 盛胤(そうま もりたね、享禄2年(1529年) - 慶長6年(1601年))は戦国時代から江戸時代の武将。陸奥相馬氏第15代当主。上記の盛胤の孫で第14代当主相馬顕胤の嫡男。相馬義胤(長門守)、相馬隆胤、相馬郷胤、女子(亘理重宗妻)らの父。小高城城主。孫次郎。天授院。弾正大弼。従四位下。
盛胤の母は伊達稙宗の長女(屋形御前)であり、また、盛胤の妻は伊達稙宗の一族(懸田義宗、ただし懸田俊宗とも)の娘であるなど、盛胤は伊達氏とは密接な血縁関係にあったが、天文の乱の際、相馬氏が稙宗に味方し、伊達晴宗と対立するなどしたため、盛胤が当主となる以前から伊達氏と相馬氏とは敵対関係にあった。稙宗が隠居し、伊達氏内部の抗争が収まった後も、相馬氏と伊達氏とは伊具郡などの領土問題をめぐり抗争はますます激化し、1540年から1590年までの半世紀にもわたって明け暮れたという。一方で、三春の豪族田村氏と相馬氏とは友好関係にあり、1549年、盛胤はその妹を田村清顕に嫁がせるに際して、化粧料として標葉郡のうち、南津島・葛尾・岩井沢・古道の四か村を田村氏に譲った記録が残っている。
盛胤は1549年、父の顕胤が死去したため家督を継ぐ。武勇に優れ、1564年には伊達晴宗と戦って伊具郡を占拠し、晴宗の後継の伊達輝宗とも丸森城などをめぐって戦い、局地戦では勝利したこともあるが、青田胤治・草野直清や佐藤好信などの有力家臣がたびたび離反するなど、伊達氏の調略や長年の抗争から次第に相馬氏は衰退していった。1578年、家督を嫡男の相馬義胤に譲り隠居。盛胤は各地の城代となっていた子の郷胤や隆胤を補佐にあたるなど、政治的・軍事的活動は継続している。
盛胤隠居後も相馬氏と伊達氏とは一進一退の状況が続いていたが、伊達政宗の登場で伊達氏の勢いが増すと力関係も逆転していく。相馬氏は一時は伊達氏と和睦をしていたが、田村氏の継承問題で争い再び対立することになる。1586年、蘆名・佐竹連合軍に加わって蘆名氏・佐竹氏と共に伊達氏を攻めるも(人取橋の戦い)引き分けに終わり、1589年、摺上原の戦いでは佐竹義重の子・蘆名義広が伊達政宗に敗れ、伊達氏が蘆名氏の版図を併呑すると、劣勢になった相馬氏も宇多郡の拠点のほとんどを政宗に奪い取られて一気に滅亡の危機に立たされてしまう。子の隆胤を失うなど傷心の盛胤は伊達氏へ服属を主張するものの、義胤が徹底抗戦を主張したためこれに従った。翌年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まったため、伊達氏の侵攻も中断された結果、相馬氏は所領を安堵され、近世大名として生き延びることができた。1601年、関ヶ原の戦いで中立を保ったたため相馬氏の帰趨が定まらない中、盛胤は没した。