白痴 (小説)
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『白痴』(はくち、Идиот)はドストエフスキーの長編小説。1868年発表。『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、『悪霊』、『未成年』と並び、ドストエフスキー五大長編の一つに数えられ、作者の代表作でもある。
レフ・トルストイはこの小説について、「これはダイヤモンドだ。その値打ちを知っているものにとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」 と言ったとされる。
題名の『白痴』には2つの意味がある。主人公ムイシュキン公爵が文字どおりの知能が著しく劣っているというもの(現代ではこの意味での「白痴」は差別的意味に捉えられている)と、「世間知らずのおばかさん」という意味である。しかし、作者はどちらの意味においても否定的に描いていない。白痴であるムイシュキン公爵は、誰からも好かれる文句なしの善人として作者は描いた。
作者は文句なしの善人である主人公ムイシュキン公爵を造型することにより、そんな人物が当時のロシア社会に現れたとしたら、いかに周囲に波乱を巻き起こして結末に至るかを描こうとしたという。
目次 |
[編集] あらすじ
注意:以降の記述で物語・作品に関する核心部分が明かされています。
若い公爵レフ・ムイシュキンは幼時から重度のてんかん症状によりスイスで療養していたが、成人して軽快したためロシアへ戻ることになった。ペテルブルクへの車中でムイシュキンは暗い情熱を秘めた男ロゴージンと知り合いになる。
ムイシュキンの両親は既にこの世になく、彼が公爵家の最後の跡取りであったため、遠縁にあたるエパンチン将軍夫人を頼る。ムイシュキンは純真無垢な人柄だが、あまりの世間知らずのためエパンチン家の人々からは白痴と陰口をたたかれる。ここで彼は将軍の秘書ガーニャが結婚を望んでいる謎めいた美女ナターシャのことを知る。彼女には身持ちが悪いとの悪評がついて回っていたが、実はロゴージンも含め多くの男たちから求婚される魅力的な女でもあった。
ムイシュキンも彼女と会って自分と共通する部分を感じ、ついに自らも求婚する。ところが彼女は一番最初にムイシュキンの善良さに気づきながらも、ロゴージンのもとに走る。こうして2人はライバルとなり、ロゴージンはムイシュキンを殺そうと企てるが、すんでのところでムイシュキンが発作を起こして人に気付かれ、失敗する。
そのうちに将軍の娘アグラーヤもムイシュキンに思いを寄せる。ロゴージンを選びながらも、陰ながらムイシュキンを愛していたナターシャは、ムイシュキンに幸せになって欲しいと思い、アグラーヤに手紙で結婚を勧める。そのうちアグラーヤとムイシュキンは相思相愛になる。
しかし、アグラーヤは例の手紙のことから、ナターシャがまだムイシュキンを好きであり、ムイシュキンもナターシャを忘れていないのではないかと嫉妬する。そのうち遠くへ行っていたナターシャとロゴージンが戻ってくる。アグラーヤはナターシャとムイシュキンの関係をはっきりさせようとおもむくものの、かえってナターシャとムイシュキンを結びつけることになる。
ムイシュキンとナターシャは結婚することになる。しかし、ムイシュキンとの結婚当日になって彼女はまたロゴージンと逃げ出す。ムイシュキンが駆け付けたとき、彼女は既にロゴージンに殺されていた。ムイシュキンとロゴージンはかつて同じ人間を愛したものとして、ナターシャの死体の前で生活することを決める。ところが庭師に家に入るところを目撃されており、その生活は一夜で終わる。発見されたとき、ムイシュキンの症状は元の白痴に戻っており、療養の日々を送ることになる。裁判の結果、ロゴージンはシベリア徒刑となった。アグラーヤは自棄になって望まぬ結婚を急ぐところで物語は終わる。
[編集] テーマ
ドストエフスキーが“白痴”を著した動機は彼が“前向きで善良な男”という人物像を描きたい願望に由来し、この男はキリストをモデルにしたと思われる。また、ドストエフスキーはムイシュキンをサンクトペテルブルク社会に導入することにより、当時のロシア社会とこの孤立で純真な男でコントラストを成し、これを彼とロゴージンの対立、かかわり合いによってさらに強調している。実に、ムイシュキンとロゴージンは物語の手始めからムイシュキンは光、ロゴージンは闇というふうに対照している。例えば、二人が列車の中で最初に記述されたとき、ムイシュキンは明るい髪と青い目、ロゴージンは“暗い容貌”と描写されている。また、ロゴージンの家の窓は鉄格子に覆われ、家の中は闇に埋れている。このように、彼は闇を具現しているだけでなく、周囲を闇に囲まれている。まさに正反対の二人である。もしムイシュキンをキリストと見るなら、ロゴージンが悪魔であることが簡単に想像できる。ロゴージン(Rogozhin)のrogはロシア語で角を意味し、前述した主張にさらに真実味を加えているが、彼の名前と最も関連性があるのはrogozha(雑種、私生児)で、彼の卑しい出身をほのめかしているかもしれない。
彼らのこうした性格の違いにもかかわらず、二人ともナターシャを追い求める。善も悪も(そしてガーニャが体現するその中間も)同じものを欲し戦う。愛そのものがさまざまな動機によって、さまざまな形であらわされている。虚栄に満ちたガーニャは、持参金によって彼自身が不足と感じていた個性をスパークさせるためにナターシャに結婚を求める。ロゴージンは自身の深い情熱のためにナターシャを愛し、その情熱が最終的に彼に彼女を殺させてしまう。ムイシュキンは、しかしながら、彼女に対する憐憫の情、キリスト教的な愛のために彼女を愛し、ナターシャに対するこの愛は彼がアグラーヤに対して持っていたロマンティックな愛をさえうち負けしてしまう。ロゴージンとロシア上流階級社会には類似点が一つ存在する。その物質主義の社会はムイシュキンが体現する徳を賛美し、自身が“善”だと装うが、ムイシュキンを受け入れることはできない。一方、ロゴージンはナターシャを心から愛するが、最後には彼女を殺す。ナターシャの美しさと当初の無垢さはトーツキイを引き付け、彼の愛人にされ、半狂気状態に陥ったように、彼女自身もそのような邪悪な社会によって崩壊した存在である。
[編集] 映画等
この作品は多数舞台化・映画化されている。映画には次のような作品がある。
- 1946年のジョルジュ・ランパン監督によるフランス映画。
- 1951年の黒澤明監督による日本映画→白痴 (1951年の映画) 参照。
- 1958年のイワン・プィリエフ監督によるソ連映画。