田沼意正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田沼 意正(たぬま おきまさ、宝暦9年(1759年) - 天保7年8月24日(1836年4月21日))は、陸奥下村藩の第5代藩主。遠州相良藩の初代藩主。相良藩田沼家6代。藩祖・田沼意次の四男。母は側室田代氏。正室は水野忠友の娘(のち離縁)。子は田沼意留(長男)、柳生俊能(次男、柳生俊章養子)、娘(柳生俊章正室)など。初名は忠徳。通称は金弥、玄蕃。官位は従四位下玄蕃頭、内膳正。
[編集] 経歴
安永3年(1774年)7月27日、水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚した。水野忠徳と名乗る。安永4年(1775年)11月15日、将軍徳川家治に御目見した。同年閏12月11日、従五位下中務少輔に叙任した。しかし、天明6年(1786年)9月5日、父意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し田代玄蕃と名乗っている。
文化元年(1804年)7月26日、陸奥下村藩主田沼意定の死去により、末期養子として家督を相続した。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下玄番頭に叙任した。後に内膳正に改める。文化3年(1806年)6月1日、大番頭に就任した。文政2年(1819年)8月8日、若年寄(西丸)に就任した。文政6年(1823年)7月8日、将軍・徳川家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。同年12月、従四位下に昇進する。天保5年(1834年)4月26日、側用人を病気を理由に辞任する。天保7年(1836年)4月21日、隠居し、長男意留に家督を譲った。同年8月24日、78歳で死去した。墓所:東京都豊島区駒込の勝林寺。
|
|
|
|
|
|