王仁
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王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる伝説的な人物。実在したかどうかは疑問視される場合もある。日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と表記されている。
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[編集] 漢籍と儒教
王仁に関しての記述が存在するのは古事記、日本書紀、および続日本紀のみである。それぞれの記述は以下のようになっている。
[編集] 古事記
古事記によると王仁は百済から献上された賢者とされる。
- 文:「百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進(此和邇吉師者、文首等祖)
- 訳:百済にもし賢人がいるのであれば献上せよとの(応神天皇の)命令を受け、(百済が)献上した人の名前は和邇吉師(わにきし)という。論語十巻と千字文一巻のあわせて十一巻をつけて献上した(王仁によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。ただし、千字文は王仁の生存時まだ編集されておらず、この記述から王仁の実在には疑問符がつけられることも少なくない。帰化した複数の学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。
[編集] 日本書紀
『日本書紀』によると、王仁は百済王の使者阿直岐(あちき)という学者の推薦を受け、応神天皇の招待に従って応神天皇16年2月に百済から渡来し、、菟道稚郎子皇子の師となり、後に帰化した学者である。
- 「十五年秋八月 壬戌朔丁卯 百濟王遣阿直岐 貢良馬二匹 即養於輕阪上廄 因以阿直岐令掌飼 故號其養馬之處曰 廄阪也 阿直岐亦能讀經典 及太子菟道稚郎子師焉 於是天皇問阿直岐曰 如勝汝博士亦有耶 對曰 有王仁者 是秀也 時遣上毛野君祖 荒田別 巫別於百濟 仍徵王仁也 其阿直岐者 阿直岐史之始祖也 十六年春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達 所謂王仁者 是書首等始祖也」
[編集] 続日本紀
続日本紀によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の項羽の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。このことから王仁は楽浪郡出身で百済にやってきた漢人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。この記述が真実であれば、王仁は313年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられる。
楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、前一七〇年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。おそらく、3世紀前半の楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命、その後、3世紀後半には日本へ移民したのであろう。
朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても楽浪王氏であるという説は説得力を持っている。
[編集] 韓国での王仁
元来、朝鮮には王仁伝承は存在しなかった。現在は彼の地でも知られているが、これは近代になって流入した知識によるものである。韓国で王仁は日本に文化を伝えた『韓国人』として扱われており、中学生用の国定歴史教科書には「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と記述されている。また、近年、全羅南道の霊岩郡では、毎年王仁博士祭りを開き、日本に文化を伝えた王仁を記念している(現在全羅南道には王仁関連の遺跡も存在しているが、1970年代以降に創作されたものであり、伝承地が作られてゆく生きた実例となっている)。
しかし、王仁は日本書紀、古事記、続日本紀にのみ記述され、韓国に残る歴史書である三国史記、三国遺事などの書籍には王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。このため、韓国人の歴史学者の間では、王仁は架空の存在であり、実在しない人物であった、とする見方が一般的である。
[編集] 古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる歌
- なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
- 古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされるこの歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる。古今和歌集 仮名序 紀貫之
[編集] 王仁塚
真偽は不明であるが以下に示す。
- 伝王仁墓(大阪府枚方市)
- 名称 大阪府史跡 伝王仁墓
- 場所 大阪府枚方市藤阪東町三丁目
- 経緯
- 王仁大明神(八坂神社)
- 名称 一本松稲荷大明神
- 場所 大阪市北区大淀中3丁目
- 経緯 王仁の墓と伝えられていた。また王仁大明神の近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。
- 王仁遺跡
- 名称 王仁墓
- 場所 全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里山
- 経緯
- 1968年 金昌洙来日
- 1970年 金昌洙再度来日、王仁の資料収集。王仁研究所を設立。
- 1972年8月 金昌洙、中央日報に『百済賢人 博士王仁』15回連載。
- 10月19日 姜信遠(霊岩郡青年会議所会長)の情報提供で当地生誕地と認定[2]。
- 1973年2月 現地調査
- 金昌洙「王仁出生地 霊岩郡」説を発表。
- 金昌洙「社団法人王仁博士顯彰協会創立」
- 1975年6月 金昌洙「博士王仁 日本に植えた韓国の精神」を出版。
- 全羅南道教育委員会 王仁博士 遺跡学術セミナー 開催
- 1976年 全羅南道文化財委員会 王仁遺跡文化財指定調査報告書
- 全羅南道 王仁博士遺跡地 道文化財記念物20号とする。
- 「王仁博士遺墟碑」を現地に建立。
- 王仁塚(山梨県韮崎)
- 名称 王仁塚あるいは鰐塚
- 場所 韮崎市神山町北宮地
- 日本武尊の王子武田王の墓と言われるもので、王仁とは無関係。