無常
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仏教 |
---|
基本教義 |
縁起 四諦 八正道 三法印 四法印 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 一切皆苦 |
人物 |
釈迦 十大弟子 龍樹 |
如来・菩薩 |
仏の一覧 |
部派・宗派 |
原始仏教 上座部 大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教 中国の仏教 |
韓国の仏教 日本の仏教 |
経典 |
聖地 |
八大聖地 |
ウィキポータル 仏教 |
無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは消滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。
目次 |
[編集] 概略
釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。
この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)・「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅するこというすがたを指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程のすがたを見る場合を指していうと、説明されている。
この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄というが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。
[編集] 日本人と「無常」
「祇園精舎の鐘の声」ではじまる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」ではじまる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観をぬきに日本の中世文学を語ることはできない。単に「花」といえばサクラのことであり、いまなお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 三枝充悳『仏教入門』岩波書店<岩波新書>、1990.1、ISBN 4004301033
- 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮社、1961.5、ISBN 4101007047
- 平岡定海『無常のうた―日本人の無常観とその歴史』毎日新聞、1993.2、ISBN 4620309214