瀬戸内シージャック事件
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瀬戸内シージャック事件(せとうちしーじゃっくじけん)とは、1970年(昭和45年)5月12日に発生した、旅客船乗っ取り事件である。また別名を「ぷりんす号シージャック事件」ともいう。
なお「シージャック」という言葉は、「ハイジャック」の意味を勘違いしたことから生まれた和製英語であり(「ハイジャック」で「乗っ取り」という意味である)、本来ならば「シップ・ハイジャック」と呼ぶのが妥当であるが、一般的に定着しているため、この項目ではそのまま使用する。
この事件は単独犯による犯行であり、日本で戦後初の犯人狙撃・射殺によって人質を救出した事件となった。
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[編集] 事件の概要
山口県内で警察官を刺し、仲間と共に逃走した犯人の20歳男性は、広島市郊外で仲間が逮捕されて一人になった後も、軽トラックの運転手を人質に取り、警戒中の警察官から拳銃を奪うなどしてなおも逃走を続けた。
さらに銃砲店から午後4時ごろライフル銃と弾丸を強奪し、1時間後に広島市の宇品港(広島港)に停泊中の、愛媛県今治市行きの定期旅客船「ぷりんす号」に乗り込み、乗船を阻止しようとした警察官に発砲、負傷させた上、船長を脅迫して出航させた。
その後「ぷりんす号」は瀬戸内海で逃走を続け、呉をはじめとする沿岸に警察官が配置され、海上保安庁の巡視艇に追跡された後、愛媛県の松山観光港に午後9時40分に入港した。
ここで犯人は代わりの船を要求したが受け入れられず、乗客全員の解放と引き換えに、燃料の補給を受けた(この際、船長ら乗員は解放されなかった)。
翌日午前0時50分に松山観光港を出発した「ぷりんす号」は同日朝、宇品港に戻ったが、犯人は肉親の説得にも応じずライフル銃を乱射したため、犯人が一瞬下を向いた際に、大阪府警から派遣された狙撃手(当時41歳)が射撃した。胸に銃弾を受けた犯人は、病院搬送後の午前11時25分に死亡した。日本で戦後初の射殺によって人質を救出した事件となった[1]。
また狙撃の瞬間は広島テレビのカメラによって記録されており、犯人が顔を歪めながら崩れ落ちる衝撃的な映像が残されている。
[編集] 事件の影響
事件後、自由人権協会北海道支部所属(2007年現在、自由人権協会には北海道支部は存在しない)の弁護士であった下坂浩介・入江五郎が、広島県警本部長と狙撃手の巡査部長(当時)を殺人罪等で広島地検へ告発した。広島地検は狙撃手の行為を刑法36条の正当防衛及び刑法35条正当行為として不起訴処分にした。弁護士側は特別公務員暴行凌虐罪について広島地裁に付審判請求を行ったが、これも棄却された。乗っ取り犯射殺という任務に当たった警察官が服務規程違反ではなく、殺人罪で告発されるのは、世界中でもクーデター等の政権交代時の権力闘争時を除いた平常時では、極めて異例であり、日本の司法の対応が注目された。
これ以降起こった日本の事件では、犯人が銃器等で武装している場合でも、なかなか射撃命令が下されなくなり、1972年のあさま山荘事件では、犯人からの一方的な攻撃で、警察官2人が殉職するといった事態を招いた。
一方、1977年(昭和52年)10月15日に発生した長崎バスジャック事件では、犯人狙撃による強行救出策がとられた。これは、その2週間ほど前の9月28日に発生したダッカ日航機ハイジャック事件に対する「弱腰の対応」が国際的批判に晒されたことに反応した、「政治的判断の強い救出策」と言われている。
この事件を教訓とした結果、1979年に発生した三菱銀行人質事件では、一人の狙撃手ではなく、大勢で一斉に狙撃をすることにより、誰が致命傷を負わせ、射殺したのか分からなくするようにした(実際には射線分析を行なえば判明する)。世界的には珍しい対応である。
この事件以降、日本の警察は、狙撃の態勢は取るものの、射撃の命令には極めて慎重になった。しかし1990年代以降、犯罪の凶悪化により警察官の受傷、殉職事案が増加したことに伴い、2001年に拳銃取り扱い規範が改定され、拳銃使用要件が明確化された。これ以降、以前と比較して警察官の拳銃使用件数は増加し、年間数十件の拳銃使用がある。