瀬名さくら
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瀬名 さくら(せな さくら、1975年1月31日 - )は、日本のAV女優。
神奈川県茅ヶ崎市出身。身長:163cm、体重:47kg、A型。バスト101cm(Kカップ)、ウエスト58cm、ヒップ86cm。
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[編集] 略歴
13歳にして、父親の隠し持っていた洋ピンビデオ (URA!!) に"萌え"を感じる。ビデオ鑑賞中、主演女優(=金髪ガイジン)と自分の姿とが重なり、将来「巨乳モデルとしてワールドワイドな活動を展開せよ」と云う啓示をうける。
1994年10月、アダルトビデオ『解禁』(九鬼/TANK)から、AV女優藤原史歩の名でデビューする。清楚さの中に妖艶さを秘めた魔性の女として多大な評価を得る。その一方で映画『痴漢電車』等でコミカルな演技もこなす多才さをみせる。
さらに、1995年5月には、ストリップ・デビューし、新宿歌舞伎町DXにて1日100枚以上!というポラ撮影記録を樹立する。
1995年10月には三和出版より単独写真集を出版。
1997年冬 マリリン・モンローの伝記を読み感銘を受け、「M・モンローのように世界中男性から愛される続ける事」をライフワークとして掲げる。 と同時に、いちAV女優として埋没してしまうことに危惧を感じ、他の女優との差別化を試み始める。M・モンローとの出会いが、一個の女性としての自我を目覚めさせたのかもしれない。これをきっかけに、彼女の自分探しの旅、自分自身を作り出す=創造するための長い旅が始まる。
1998年前後から事務所任せでなく、自らの手で自分自身をプロデュースすることにチャレンジし始める。4月に都内の美容外科で初めての豊胸手術を受ける。これも平凡であることから抜け出たいと願う、彼女の戦略のひとつだろう。この年は所属事務所と芸名を変え(神田美保、香川みき、美咲香蘭など)出演本数も増え活動も活発化する。しかし、これらの変化の中にあっても、彼女の満足いくものは得られなかった。
この年の末頃から海外デビュ-への意志が明確になり、本格的に海外進出へ向けての戦略を検討し始める。そのためにも日本における活動や経歴を清算し、新たにゼロから生まれ変わる事を決意する。
そして1999年初頭 ファンや業界の多くの人達から惜しまれつつも藤原史歩としての活動に終止符を打つ。このときまでの藤原史歩時代の出演ビデオ総数約70本。
ストリッパー時代に、客席から「それは豊胸だろう」と野次を飛ばされ、悔しさの中でそれならもっと徹底的にやってやろうと発奮。 彼女が崇拝してやまないロロ・フェラーリら、ありえないサイズに豊胸した巨大なバストを誇らしげに突き出してポーズをとる海外のポルノ女優たちに刺激されるが、日本の豊胸整形技術には限度があり、インターネットで海外のサイトを独自に調査し始める。
1999年5月に渡米。アメリカ合衆国フロリダ州にある美容外科センターにて2度目の豊胸手術を受ける。シリコン注入量は1000cc。 渡米中にフロリダ州フォートローダーデールにあるSCOREマガジン社 (en:SCORE_Magazine) に招待され、日本人として初のグラビアを飾ることになる。これは瀬名さくらとしての再デビュー、公式の初仕事である。
帰国後、同年9月、瀬名さくらとして、自身のインターネットサイトを運営するが、これは当時の日本においては斬新で、AV女優自身の手によるネット運営のパイオニアとして評価されている。
翌年から2001年にかけては、瀬名さくら名でのアダルトビデオ再デビューなど、精力的な活動を続ける。島田雅彦とのコラボレイト撮影、小説のモデル等、その評価はAV業界にとどまらなかったが、常に自己の変化と向上を求める彼女には、日本という狭い土地は満足行くものではなかった。
2003年5月 カナダ・ブリティッシュコロンビア州に移住を決意する。カナダの広大な大地で、瀬名さくらは、自分がどうあるべきか試行錯誤を繰り返し続けている。彼女の自分探しの旅は、まだその入り口に立ったばかりにすぎない。
[編集] 作品
[編集] アダルトビデオ
- 藤原史歩 名義
- ぶっかけフェスティバル 6(1996年、シャトルジャパン)
- 瀬名さくら 名義
- モンスター BODY (2002年3月30日、メディアタイフーン)
- Japanese Girl (2002年4月20日、メディアタイフーン)
- SEXマシーン 瀬名さくら (2002年5月25日、メディアタイフーン)
- コンプリート瀬名さくらDX (2002年9月14日、プリンセス)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Sakura Mania - オフィシャル
- It's My Life - 公式ブログ
- Sakura Sena Italia - 瀬名さくら Italy