済暹
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済暹(さいせん、万寿2年(1025年)-永久3年11月26日(1115年12月13日))は、平安時代後期の真言宗の僧。仁和寺慈尊院に住した・南岳房僧都とも呼ばれた。出自不詳で、父は朝臣文綱(朝臣はカバネ)としか判明しておらず、彼自身の俗姓名も不明である。
応徳元年(1084年)仁和寺北院において性信入道親王から伝法灌頂を授けられた。長治元年(1104年)の弘法大師御影供には東寺長者経範の死去により当参僧の一臈として供養法を勤め、天仁2年(1109年)詔によって仁和寺に伝法会を置き、推されて『理趣経』の講師を務めた。永久3年(1115年)11月26日、91歳で没した。学殖の誉れ高く、特に承暦3年(1079年)に、空海の詩文集『遍照発揮性霊集』全10巻のうち、散逸した末尾3巻を『続遍照発揮性霊集補闕抄』として再編集したことは名高い。また『釈摩訶衍論顕秘鈔』18巻、『大日経住心品疏私記』14巻、『悉曇字記鈔』3巻、『念仏滅罪因縁略鈔』1巻など数多くの著作がある。悉曇にも造詣が深く、心覚と並び称される碩学だった。付法弟子に定意・静灌・念覚・聖寛・頼舜がいる。