浅野長尚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅野 長尚 (あさの ながなお、正保元年(1644年) - 寛文6年7月28日(1666年8月28日))は、江戸時代前期の三次藩浅野家の世子。第二代三次藩主になるはずであったが、家督する前に死去してしまった。通称は松千代(まつちよ)・又六郎(またろくろう)、官位は従五位下・和泉守(いずみのかみ)。
安芸国広島藩主浅野光晟の次男として生まれる。母は前田利常の娘・満姫。浅野本家の家督は兄浅野綱晟が継いだため、次男の長尚は、明暦元年(1655年)に三次藩主浅野長治の養子に入った。4月15日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁。万治元年(1658年)12月27日には従五位下和泉守に叙任した。しかしこのあと病にかかり、安芸国広島城に戻って養生していたが、そのまま回復せずに寛文6年(1666年)7月28日に広島で死去した。享年23。安芸国の日通寺に葬られた。法名は顔哲日容浄心院。