洪熙帝
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政権 | 明 |
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廟号 | 仁宗 |
諡号 | 敬天体道純誠至徳弘文欽武章聖達孝昭皇帝 |
姓・諱 | 朱高熾 |
生没年 | 1378年 - 1425年 |
在位期間 | 1424年 - 1425年 |
父 | 永楽帝(長子) |
母 | |
陵墓 | 献陵 |
元号 | 洪熙:1425年 |
洪熙帝(こうきてい 1378年 - 1425年、在位1424年 - 1425年)は、中国明朝の第4代皇帝。諱は高熾(こうし)。廟号は仁宗。しかし、日本ではその在位中の元号から一般的に洪熙帝と称される。
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[編集] 生涯
永楽帝の長子として生まれ皇太子となる。幼い頃から病弱で成人になった頃は極端に肥満し、自ら歩く事も困難だったと言われる。永楽帝はこの病弱な皇太子に不満を持っていたが廃嫡するまでには踏み切れず、皇太子の息子の朱瞻基(のちの宣宗宣徳帝)が英邁であったため皇太子の廃立は行わなかった。永楽帝は度々親征を行い、首都を空けることが多かったため朱高熾はその都度監国として永楽帝の代理を務めた。
1424年(永楽22年)、永楽帝の崩御にともない朱高熾が即位する。洪熙帝はまず父永楽帝に諫言して投獄されていた戸部尚書(大蔵大臣)の夏元吉らを釈放し、次に靖難の変の際に建文帝の側についた臣下の家族達を赦免した。建文帝の側近達はみな殺され、その妻子達も奴隷や官妓(官営の売春婦)にされたりしていた。これを洪熙帝は元の身分に戻し、財産なども返還した。そして法の適用を明確に恣意的な刑罰が行われないようにし、宮刑を禁止した。
永楽帝が外征を行うたびに莫大な額の国庫が浪費されていくのを監国として批判的に見ていた洪熙帝は外征を一切行わず、北京を都城に定めているため北方の動きに動揺しやすいと考え、再び南京に遷都する事を計画している(また、太祖洪武帝時代の建国当初への回帰という考えもあったとされる)。遷都計画は洪熙帝の崩御により自然消滅している。
洪熙帝の治世はわずか一年だが、その治世は仁政であり、恤民を主眼にした政策と記録に残されている。永楽帝が外征している間、監国として長く内政の実務を取り仕切り、明朝興隆の実を上げており、英主の実績を残している。永楽帝期の過度な膨張政策と恐怖政治を緩和し、民衆に休息の時間を与えた。『明史』には洪熙帝の寿命があったならば、その功績は文景の治(前漢の文帝・景帝の時代、国全体が平和で安定していた時代とされる)に劣らなかったとの記述を行っている。また仁宗洪熙帝と宣宗宣徳帝の治世を併せて仁宣の治と言い、明の最盛期と後世の史家は評価している。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 誠孝恭粛明徳弘仁順天啓聖昭皇后
- 賢妃
- 順妃
[編集] 子
- 宣徳帝朱瞻基
- 鄭靖王朱瞻颭
- 越靖王朱瞻墉
- 蘄献王朱瞻垠
- 襄憲王朱瞻墡
- 荊憲王朱瞻堈
- 淮靖王朱瞻澳
- 滕懐王朱瞻塏
- 梁荘王朱瞻垍
- 衛恭王朱瞻延
[編集] 女
- 嘉興公主
- 慶都公主
- 清河公主
- 徳安公主
- 延平公主
- 徳慶公主
- 真定公主
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