宣徳帝
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政権 | 明 |
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廟号 | 宣宗 |
諡号 | 憲天崇道英明神聖欽文昭武寬仁純孝章皇帝 |
姓・諱 | 朱瞻基 |
生没年 | 1399年 - 1435年 |
在位期間 | 1425年 - 1435年 |
父 | 洪熙帝(長子) |
母 | |
陵墓 | 景陵 |
元号 | 宣徳:1426年 - 1435年 |
宣徳帝(せんとくてい 1399年 - 1435年 在位1425年 - 1435年)は、中国明朝の第5代皇帝。諱は瞻基(せんき)。廟号は宣宗。しかし、日本ではその在位中の元号から一般的に宣徳帝と称される。
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[編集] 生涯
洪熙帝の長子として生まれる。父・洪熙帝は病弱で祖父・永楽帝は皇太子の廃嫡を考えていたのだが、朱瞻基が英明であったため永楽帝は廃嫡しなかったと史書にある。永楽帝の親征にも随行して、祖父に対して助言をしていた。
1425年、洪熙帝が在位わずか一年で死に、朱瞻基が皇帝に即位する。即位直後に叔父の漢王朱高煦の反乱が発生した。朱高煦は戦場では永楽帝譲りの才覚を発揮し、一時期立太子を検討された事もあったが、暴虐無礼でることを理由に中止されていた。
若き皇帝に対する叔父の反乱は建文帝と永楽帝の靖難の変を惹起され、それが漢王の自信の源ともなっていた。しかし建文帝と異なり宣徳帝は果断に叛乱に対処し、臣下の勧めに従い即座に親征し反乱を鎮圧した。漢王は囚われ監禁されたが、数年後宣徳帝が叔父に会いに行くと、漢王は宣徳帝を蹴倒し、これに怒った宣徳帝は叔父を焼き殺してしまった。宣徳帝には果断の裏に祖父や曽祖父譲りの残虐性があったようである。
宣徳帝は更に皇族たちに厳しい監視を付け、丞相も廃し皇帝独裁権を確立した。しかし独裁は皇帝個人で実行できるものでなく、宣徳帝は内閣大学士、中でも楊栄、楊士奇、楊溥の3人を重用した。この3人は同姓であったため三楊と称されている。
明朝創始者の洪武帝は宦官が政治に介入を防止する目的で、宦官の学問を禁じていたのだが、宣徳帝は宦官の学問所である内書堂を設立、皇帝の秘書である太監の権限を強化した。
権力を確保した宣徳帝は内政に努め、また経営維持が困難となっていた満州を放棄、またベトナムからの撤兵を決定した。その一方で鄭和による南方航海を再開している。これは版土の単純な縮小を意味すものではなく、永楽帝期に膨張した領土を取捨選択肢捨て国内の行政制度を整備を目的とした政策であった。
1435年に崩御した。宣徳帝の治世は洪熙帝と並んで永楽帝以後の休養期にあたり、仁宣の治と呼ばれ、明の絶頂期と歴史家は評価している。
宣徳帝は、芸術、殊に絵画で優れた作品を残しているが、一説によれば、彼が絵を画く時には、いつも担当の役人が側に控え、宣徳帝自身が気に入らないと思った部分を彼等に即座に手直しさせていたといわれる。
宣徳帝は確かに名君でその功績は高く評価されるのだが、宦官の権力を強めた弊害は次代の英宗の時代に早くも朝政の腐敗となり現出していく。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 恭讓章皇后
- 孝恭章皇后
- 賢妃
- 嬪、郭愛
- 端静貴妃
- 純静賢妃
- 貞順惠妃
- 荘静淑妃
- 荘順敬妃
- 貞恵順妃
- 恭定麗妃
- 貞静淑妃
- 恭順充妃
- 肅僖成妃
[編集] 子
[編集] 女
- 順徳公主
- 常徳公主
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