景帝 (漢)
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政権 | 前漢 |
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廟号 | (なし) |
諡号 | 孝景皇帝 |
姓・諱 | 劉啓 |
生没年 | 前188年 - 前141年 |
在位期間 | 前156年 - 前141年 |
父 | 文帝(第5子) |
母 | 竇皇后 |
陵墓 | 陽陵 |
景帝(けいてい、紀元前188年 - 紀元前141年 在位紀元前157年 - 紀元前141年)は前漢の第6代皇帝。諱は啓。正式な諡号は孝景皇帝。
5代皇帝・文帝の子で、父帝と同様に漢の基盤を固める善政を行い、その治世は「文景の治」と賞賛された。
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[編集] 略歴
[編集] 治世初期まで
『史記』「外戚世家」によると、景帝は文帝の第5子として生まれた。4人の兄が早世し、生母の竇氏が正室に昇格したことにより文帝の嫡子となった。
皇太子時代には呉王劉濞の太子・劉賢と些細なことで口論になり、これを殺してしまっている。この一件で中央政府と呉王の関係は冷却するが、文帝の政治的配慮により事態は収拾された。これが後の呉楚七国の乱の原因の一つにもなっている。
紀元前157年に皇帝に即位した。景帝の政治は基本的に文帝のものを受け継ぎ、無理をせず外征は控えて倹約に努めるというものであった。また重農政策を打ち出して減税に取り組んだ。(当時の記録では人口90パーセントが農業に従事していた。)この結果、社会は安定した。後世には文帝の時代と合わせ「文景の治」と称えられた。
[編集] 呉楚七国の乱
呉楚七国の乱も参照
この時代には皇族・宗族が封じられた諸侯王は領内の徴税・官吏の任命権などを握り、分国は半独立国の様相を呈していた。この問題は前代以来のことであり文帝も対策を徐々に行ってはいたものの、この問題に対しても無理をしないということで本格的な対策は先送りにしておいた。
基本的には文帝の方針を受け継いだ景帝だが、この問題に関しては御史大夫・晁錯の献言に従って諸侯王の権力を削ることに取り組み、諸侯王の些細な過ちを口実に領土を没収して中央に組み込んでいった。 このことに反発した諸侯王たちは密かに連携し、景帝の治世3年目の紀元前154年に呉王劉濞を中心として反乱を起こした。これを呉楚七国の乱と呼ぶ。当初は反乱軍の勢いが強かったが、周亜夫の活躍によりこれを鎮圧した。
[編集] その後
乱を鎮圧して以降、諸侯王の領土については官僚である相(しょう)を派遣して治めさせ、諸侯王にはここから上がる税を受け取るだけのものとした。これにより当初の思惑とおり諸侯王の権力は削減された。
また、呉楚七国の乱鎮圧の功労者である周亜夫を皇太子冊立をめぐる対立により丞相から解任。それからしばらくして前漢では初めて自身の側近を丞相に任じた。このことは、従来は皇帝の政策にも制約を加えるだけの力を有していた元勲達とその一族、及び高祖以来彼等からのみ選ばれることが不文律化していた丞相の権力が景帝の時代に大きく低下し、逆に皇帝権がこの時代に飛躍的に強化されたことを示している。
しかし、政治での現実的な対応の一方で、来世や不老不死への関心は深くなっていった。景帝の陵墓から発見された豪華な副葬品は公式な記録に記された質素倹約の様子に反するものである。この時代は死者に財をついやす余裕がある贅沢な時代だったのである。
[編集] 宗室
- 后妃
- 薄皇后 - 祖母の薄氏の姪孫
- 栗姫
- 程姫
- 賈夫人
- 唐姫
- 孝景皇后(王娡)
- 王児姁 - 孝景皇后の妹
- 子女
- 臨江閔王・劉栄 (母:栗姫。栗太子と呼ばれる)
- 河間献王・劉徳 (母:栗姫)
- 臨江哀王・劉閼于 (母:栗姫)
- 魯恭王・劉余 (母:程姫。はじめ淮陽王、劉焉と劉表の祖)
- 趙敬粛王・劉彭祖 (母:賈夫人。はじめ広川王)
- 江都易王・劉非 (母:程姫。はじめ汝南王、前168年-前128年と生没年が明確)
- 膠西于王・劉端 (母:程姫)
- 中山靖王・劉勝 (母:賈夫人。一説では劉備の祖)
- 長沙定王・劉発 (母:唐姫。後漢の劉秀の祖)
- 武帝・劉徹 (母:孝景皇后。はじめ膠東王)
- 広川恵王・劉越 (母:王児姁)
- 膠東康王・劉寄 (母:王児姁)
- 清河哀王・劉乗 (母:王児姁)
- 常山憲王・劉舜 (母:王児姁。真定王・劉楊の祖)
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- 平陽公主 (母:孝景皇后。武帝の姉)
- 南宮公主 (母:孝景皇后)
- 隆慮公主 (母:孝景皇后)
[編集] 関連項目
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