池田茂政
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池田 茂政(いけだ もちまさ、天保10年10月16日(1839年11月16日) - 明治32年(1899年)12月12日)は、備前岡山藩の第9代藩主。父は常陸水戸藩主・徳川斉昭(茂政は九男)。正室は池田慶政の娘・萬寿子。兄弟に、水戸藩主の徳川慶篤と徳川昭武、因幡鳥取藩主の池田慶徳、土浦藩主の土屋挙直、石見浜田藩主の松平武聰、下野喜連川藩主の喜連川縄氏、そして第15代将軍・徳川慶喜らがいる。官位は従四位上。弾正大弼。左近衛権少将。明治維新後は従一位、勲二等、麝香間祗候。
[編集] 経歴
幼名は九郎磨。名は茂政のほか、松平昭休、池田修政。尊皇攘夷で有名な水戸藩主・斉昭の九男として天保10年(1839年)、江戸藩邸で生まれた。嘉永元年(1849年)8月2日忍藩主松平忠国の養子となる。後に水戸徳川家に復籍する。文久3年(1863年)2月8日、岡山藩主池田慶政の養子となる。同年、養父慶政の隠居により、家督を継いだ。これは当時、岡山藩内がただの尊王か、それとも尊皇攘夷を行なうかで藩論がまとまらなかったため、慶政が藩士の江見陽之進の進言を容れて、尊皇攘夷で盟主的な存在であった斉昭の息子を家督に就けることで、藩論をまとまらせようとしたのである。
慶応3年(1867年)の大政奉還や王政復古の大号令後の慶応4年(1868年)、兄で将軍だった徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられた。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加われるはずも無く、茂政は朝廷に対して隠退・養子届けを出して、家督を池田章政に譲って隠居してしまった。(章政は肥後人吉藩主・相良頼之の次男。備中鴨方藩主となり、池田政詮と名乗っていた。茂政の養嗣子となって本家の家督を継承する。また、相良頼之の祖父は池田宗政の次男・相良長寛である)
明治32年(1899年)、61歳で死去。神号は五十武彦茂政命。墓所は岡山県備前市吉永町和意谷池田家墓所。
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