水野勝俊
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水野 勝俊(みずの かつとし、慶長3年7月25日(1598年8月26日) - 承応4年2月21日(1655年3月28日)は備後福山藩(現在の広島県福山市)二代藩主。水野宗家2代。
初代藩主水野勝成の長男で、備中国成羽(現在の岡山県高梁市成羽町)に生まれる。生母は三村親成に仕えていた藤井広玄の娘「お登久(おとく)」。官位は従四位下。美作守。正室は九鬼守隆の娘。子は水野勝貞(次男)、水野勝清(六男)、娘(園基福室)。
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[編集] 経歴
水野勝俊は慶長3年(1598年)放浪の身であった父勝成が身を寄せていた三村親成知行の備中国成羽城下にて生まれる。幼名は長吉。初めは勝重と名付けられるが、正保3年(1646年)に勝俊と改める。幼少から勝成に従い慶長14年(1609年)に11歳で「美作守」に叙任される。慶長19年(1614年)には大坂の役に参加し翌年の夏の陣では特に軍功をあげた。なお、大坂の役では宮本武蔵が勝重付けとして名を連ねている。元和5年(1619年)に勝成の福山入封に同行するが、福島正則の築いた鞆の浦の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため「鞆殿」と呼ばれたという。寛永9年(1632年)の熊本藩加藤忠広の改易に際しては勝成と共に熊本城受け取りの任に当たった。寛永15年(1638年)の島原の乱では父勝成に従い息子伊織と伴に参陣し総攻撃で原城への一番乗りを果たした。翌年(1639年)、勝重は42歳で勝成から家督を譲り受け備後福山藩二代藩主に就任する。以後、16年余り藩主を務め父勝成の事業を継続し、新田開発や領地の整備に奔走した。ただ、勝成は隠居後も藩政へ口出しすることがあり、これに対し勝俊が苦言を呈する場面もあったようだ。福山城下の整備では城下南東に架けた新橋(天下橋)が明治時代まで城下の中心となった。 勝俊は水野家歴代藩主で唯一日蓮宗に帰依しており、城下の日蓮宗妙政寺の大檀越となっているが、他の寺社への庇護も厚く「鞆祇園宮(現在の沼名前神社)」に寄進した能舞台は今日も残され国の重要文化財に指定されている。そして、慶安4年(1651年)の勝成の死後から4年後の承応4年(1655年)に江戸藩邸で死去し妙政寺に葬られた。
法名は信解院殿前四品作刕太守理円日證大居士。
墓所:広島県福山市北吉津町の日蓮宗妙政寺。墓は巨大な五輪塔で、墓前には勝俊に従い殉死した七人の家臣(西山半左衛門、三宅半助、横山惣右衛門、田中十郎右衛門、上田七兵衛、馬場長右衛門、河上一郎右衛門)の墓が並んでいる。
[編集] 人物・評価
勝俊は庶民出自の母を持ち父の流浪生活に付き従ったためか、封建的時代の藩主としては過剰なほど領民に対する気遣いを見せている。例えば、福山城下が火災により焼失したときには家臣に再建を余り急がせて町人が迷惑してはいけないから、少し遅れてもよいので町人に迷惑をかけぬよう命じており、飢饉のとき、藩の鷹師が麦畑を荒らすことがあれば父勝成の領地であろうと自分の領地であろうと届けなしに百姓総出で鷹師を処罰してもよいとしている。また、度重なる不作に対しては資金の貸与や年貢の減免など手厚い救済策を講じ農民の没落を防いでいる。さらに、藩主就任の翌年には幕府から備中松山城在番を命じられるが、藩士が皆木綿の着物を着ていたことから、その質実さを松山の町民が称えたという。しかし、家臣にこうした倹約を強いたにもかかわらず、勝俊の死に際しては家臣7人が殉死するなど、信任は非常に厚かったようである。能楽や俳諧を好み、俳人野々口立圃と親交を深めるなど、文化面でも熱心であった。そして、天災や領内整備による財政の窮乏を凌ぎ藩の安定に尽力するなど、文献で見る限り勝俊は名君と評価できるが、カリスマ的存在である父勝成の存在により影が薄くなりがちである。
[編集] 関連項目
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