正親町季秀
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正親町 季秀(おおぎまち すえひで、天文17年(1548年) - 慶長17年7月1日(1612年7月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の公家。おもに正親町天皇(106代)・後陽成天皇(107代)の二代に仕えた。初名は実彦。
公家の庭田重保(権大納言)の次男として生まれる。母は広橋兼秀の娘。天文18年(1549年)に正親町公叙の養子となり従五位下に叙爵した。永禄2年(1559年)に元服し、以降、右近衛少将・右近衛中将・蔵人頭と累進し、天正4年(1576年)には従三位左近衛中将・参議となり、公卿に列した。天正7年(1579年)に季秀と改名し、正三位権中納言となるが、天正9年(1581年)には権中納言を辞職。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際しては、皇太子誠仁親王とともに二条御所(織田信長が造営して誠仁親王に献上していた)にいたのだが、まもなく織田信忠らが二条御所へ逃れてきて、ここは危険なのですぐにも内裏へ逃れるよう言われた。季秀らは、すぐさま親王を奉じてそれがわかるよう朝廷の正装でもって御所を出ると、包囲する明智軍に通してもらって無事に脱出する。
天正11年(1583年)には従二位で権中納言に再任する。天正15年(1587年)には正二位に昇進し、さらに慶長16年(1611年)には権大納言となり、翌年従一位へと上ったが、まもなく死去した。享年65。
子に正親町季康、正親町季俊、裏辻季福、小倉実右、持明院基久がいる。
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