桂小春団治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桂 小春団治(かつら こはるだんじ)は、上方落語の名跡。本来の表記は「小春團治」である。当代は3代目。
- 初代 桂小春団治(1904年10月20日 - 1974年8月15日)は、本項を参照。
- 2代目 桂小春団治(1932年3月5日 - )は、後の2代目露の五郎兵衛。本名: 明田川一郎。
- 3代目 桂小春団治(1958年2月15日 - )は、3代目桂春団治門下。本名: 三島広幸。
目次 |
[編集] 初代
初代 桂小春団治(1904年10月20日 - 1974年8月15日)は、後に舞踊家として花柳芳兵衛を名乗る。本名: 林龍男。享年69。
大阪市西区九条に生まれる。父は初代橘ノ圓門下の立花家圓丸(後の桂團丸)。1909年、父の門下で、子役の色物として立花家小圓丸を名乗り、互楽派の松島文芸館で初高座。1912年5月、寿々女会結成に際し父と共に移籍し、翌年に4代目笑福亭松鶴門下となり笑福亭児鶴を名乗る。同年末に、再び立花家小圓丸で復帰するが、1916年、大師匠の初代橘ノ圓門下に移り、橘ノ次郎を名乗る。同年末に三遊亭圓子門下へと移り、三遊亭子遊と改名。この頃、初代桂文我に芝居噺の稽古を受ける。1921年、父と共に初代桂春団治門下に移り、父は団丸を、息子は小春団治を名乗る。
師の春団治と共に吉本興業に属し、『本能寺』『綱七』などの芝居噺と、『円タク』、アメリカの禁酒法をヒントに創った『禁酒』や『道頓堀行進曲』のヒットにヒントに創られた『夜店行進曲』、『廃娼論』、『爆弾三勇士』などの新作落語で人気を博したが、落語を軽視していた吉本に反発して、1933年に退社し、4代目桂米團治らと共に「桃源座」を結成。
しかし、当時の上方演芸界は吉本に支配されていたため、やがて大阪での活動が困難になる。吉本からは「小春団治」の名前を返せと言われ、1935年、本名で活動していたが、東京に移住。1936年1月、4代目柳家小さんのもとに身を寄せ、桃源亭さん生を名乗る。やがて、3代目三遊亭金馬の紹介で東宝の専属となり、再び本名で東宝名人会に出演。
同年11月、吉本と和解して大阪に戻り、林芳男を名乗る。元々、舞踊は山村流の名取で、山村若龍を名乗っていたが、1939年、4世花柳芳次郎に入門し花柳流に転向、花柳芳兵衛を名乗る。その際「落語界とは一切の縁を断つ」と誓約させられた。
小春団治は、師匠・春団治が最も愛した弟子だったが、上記の経緯により、師の葬儀に参列することさえ許されなかった。春団治の名跡は、実力もあり、吉本せいの覚えもめでたかった、初代桂福団治が継ぐことになった。
晩年、NHKに芝居噺を記録保存し、芸の伝承に努めると共に、毎日放送「素人名人会」の審査員を務めた。
大正の末から昭和10年頃までにSPレコードを得意の新作を中心に残している。
[編集] エピソード
- 月亭春松編『落語系圖』によれば、上記の初代小春団治は2代目とされ、それ以前に初代のいたことが記されている。この「初代」は、桂小文字(1895年-1926年、享年31)の前名とされるが、結局大成しなかったため、師匠・春団治と同じく、2代目が初代と呼ばれることになったらしい。
- 現在の2代目露の五郎兵衛が2代目小春団治を襲名する際、初代であった花柳芳兵衛に挨拶をした所、「この名前は何かと損する名前やさかい、わたしとあんたで"止め名"にしまひょ」と言われ、面食らったという。事実、2代目も後年所属する吉本興業側から、「小」の字が気に入らない、と改名を促されることになる。それでも1999年、3代目が誕生した。
[編集] 著書
- 『鹿のかげ筆』(白川書院、1977年)※花柳芳兵衛として