根拠に基づいた医療
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
根拠に基づいた医療(こんきょにもとづいたいりょう、EBM:evidence-based medicine)とは、「良心的に、明確に、分別を持って、最新最良の医学知見を用いる」("conscientious, explicit, and judicious use of current best evidence") 医療のあり方をさす。エビデンスに基づく医療とも呼ぶ。
治療効果・副作用・予後の予測など臨床現場での疑問について、理論や経験や権威者の判断などに拠っていた従来の医学を反省する立場に立つ。教科書や過去の論文などを広く検索し、時には新たに臨床研究を行うことにより、なるべく客観的な疫学的観察や実験に根拠を求めながら、患者とともに方針を決めることを心がける。
目次 |
[編集] 概念
人体の生理反応や治療の効果・副作用には再現性は不十分であり、同じ治療でも患者によって結果は異なる。しかしすべての医療行為は目の前の患者にとって最良の結果をもたらすために医学的判断に基づいて選択されなければならない。最良の治療法を選ぶ方法論として従来は生理学的原則・知識が重視され、不足の部分を医療者の経験や権威者の推奨が補ってきた。
生理学的判断の例:「心筋梗塞後に薬で不整脈を減らすことができれば、不整脈による死亡を減らすことができるはずだ」
権威の例:「この治療法は当大学で100例以上の良好な成績を収めており、関連病院にも勧めている」
経験の例:「私の経験では、ホルモン補充療法はどうやら心疾患を減らすようだ。同僚もそう言っている」
これらの経験知を共有する手段は主に書籍・学会誌・論文発表に限られ、インターネットが発展する近年までは誰もが広く情報に触れることは難しく、国・地域・治療者が異なれば治療法もまた様々であった。しかし1980年代になって米国国立医学図書館によるMEDLINEなど医学情報の電子データベース化が進み、また疫学・統計手法の進歩によりできるだけバイアスを廃した研究デザインが開発されるに従って、治療法などの選択となる根拠は「正しい方法論に基づいた観察や実験に求めるべきである」という主張が現れた。カナダのマクマスター大学でDavid Sackettらにより提唱されたこの動きは1990年にGordon GuyattによりEBM(Evidence-based Medicine)と名づけられ、文献への初出は1992年[1]。日本では根拠に基づいた医療、中国語では、循証医学、実証医学、証拠医学などと訳される。
EBMはこのように、通常行われている診療行為を科学的な視点で再評価(「批判的吟味」と呼ばれる)した上で、患者の問題を解決する手法と位置づけられ、外部のエビデンス(=科学的根拠)を目の前の患者にどのように適用するかに最も関心がある。
[編集] 成果
EBMの成果を端的に示すエピソードのひとつに、心筋梗塞後の抗不整脈薬の使用についてのCAST studyが挙げられる。心筋梗塞は急性期が過ぎてから合併する不整脈が時として致死的となるため、抗不整脈薬が有効であるという理論・予測があり、抗不整脈薬が予防的に投与されていた。しかし、最も有効な薬剤グループを調べるためにランダム化比較試験による臨床実験が行われところ、中間報告で最も死亡率の低いのは薬剤非投与群だったことが判明。安全のために試験の一部が打ちきりとなり、以後は抗不整脈薬が一律に投与されることはなくなった。
2004年より、ハーバード大学教授の Donald Berwick が病院での死亡率を減らすために科学的根拠に基づいた医療(evidence-based practices)を行うことを励行する「10万を救うキャンペーン」(100000 lives campaign)を行い、アメリカの3000以上の病院が参加した結果、18ヶ月で推定12万人以上の死亡者を減らした[2]。
[編集] 勧告の強さの分類 / エビデンスレベルの分類
推奨の度合いは、研究方法によって決定されるエビデンスレベルと、勧告の強さであるグレードによって総合的に決定される。
A 強く勧められる |
B 勧められる |
C 勧められるだけの 根拠が明確でない |
D 行わないよう 勧められる |
|
---|---|---|---|---|
I a システマティックレビュー メタアナリシス |
||||
I b ランダム化比較試験 |
||||
II a 非ランダム化比較試験 |
||||
II b その他の準実験的研究 |
||||
III 非実験的記述的研究 (比較研究、 相関研究、 症例対照研究など) |
||||
IV 専門科委員会や権威者の意見 |
[編集] 手法
EBMの手順として、次の5段階が提唱されている。
- 第1段階 患者の問題の定式化
- 第2段階 定式化した問題を解決する情報の検索
- 第3段階 検索して得られた情報の批判的吟味
- 第4段階 批判的吟味した情報の患者への適用
- 第5段階 上記1〜4の手順の評価
[編集] 第1段階 患者の問題の定式化
現在対処しなければいけない課題の中から、どのような情報が必要か、問題点を抽出する。
治療法に関する疑問の場合、
- 対象集団(Population)
- 検討すべき介入(Intervention)
- 比較すべき選択肢(Comparison)
- 目的とする結果(Outcome)
を定義することからはじめる。(頭文字を取ってPICO questionと呼ばれる。)
もともとの問い:
山田太郎さんの高血圧には、どの薬を使えばよいだろうか」
抽出した問い:
P: 50歳の日本人男性で糖尿病を合併した高血圧症には
I: 薬剤Aで治療した場合
C: 薬剤Bで治療するのと比べて
O: どちらが脳卒中や心疾患を予防できるだろうか。
同様に、予後に関する疑問の場合には、
- 対象集団(Population)
- 検討すべき曝露(Exposure)
- 対照群(Comparison)
- 関心のある結果(Outcome)
副作用など未知の病因に関する疑問の場合には、
- 対象集団(Population)
- 検討すべき疾患(Incidence)
- 対照群(Control)
- 関心のある曝露(Observation)
をそれぞれ定義する。
[編集] 第2段階 定式化した問題を解決する情報の検索
上記の問題を解決できる情報を収集する。
一般に、治療効果にはランダム化比較試験やコホート研究、病因や副作用の評価には症例対照研究、予後にはコホート研究、など頻繁に用いられる研究デザインがある。上記の疑問を元に、その問題を解決できる適切な研究デザインを想定し、適切なデータベースを検索することでそのような研究結果が存在するかどうかを調べる。 一般的な医学研究には、MEDLINE・EMBASE(英語)、医学中央雑誌・メディカルオンライン(日本語)などが用いられる。看護に関連するテーマにはCINAHL(英語)、精神医学領域にはPsychInfo(英語)も対象となる。
また、上記の手間を節約するために、一般的な医学教科書・Clinical Evidence・UpToDateといった二次情報と呼ばれる資料集も存在する。またランダム化比較研究に特化したデータベースとしてCochrane Database of Systematic Reviews(CDSR)が挙げられる。
[編集] 第3段階 検索して得られた情報の批判的吟味
具体的な情報(主に論文)を手にしてその評価を行う。
医学研究には、その計画からデータ収集、解析、報告にいたるまで、さまざまな形で結果に影響する要因(バイアス)が存在する。その有無を適切に評価した上で、その研究結果をどれだけ信頼できるか(内的妥当性)、どれだけ他のケースに応用できるか(外的妥当性)を判断する。医学的な知識はもちろんのこと、臨床疫学や統計学の知識が求められる。
[編集] 第4段階 批判的吟味した情報の患者への適用
問題の解決に向けて、得られた医学情報のほかに、一般常識や患者の希望を含めて、最良の選択肢を相談する。 治療法Aがもっとも長生きするとしても、患者は副作用の少ない治療法Bを希望しているかもしれない。このように、上で評価した研究の目的と、患者の望む目的が同一かどうかを検討しなければならない。
[編集] 第5段階 上記1〜4の手順の評価
上記の判断が正しかったかどうかを事後評価し、今後のプロセス改善につとめる。
[編集] EBMにまつわる誤解
過去のEBM教育ではこの第1〜3段階の方法論を研ぎ澄ませることに重きを置き、また第4段階については必ずしも言葉で説明を尽くされて来なかった事から、医療者の中には「良い臨床研究を見つけて医療をマニュアル化することがEBMである」との誤解が広まった時期がある[3]。
しかし、実際には最も重要でありかつ労力を要するのは第4段階である。手法の優れた臨床研究が見つかっても、そこでの推奨が目の前の患者を幸せにするかどうかの判断には、個々の患者の特性を見極め、医療環境や医療チームの技術水準を評価し、さらに患者の価値観を適切に把握する必要がある。第1〜3段階までの方法論はほぼ確立し、人によってその結果が大きく異なることがないのに対して、この第4段階には患者との対話・状況判断・統合力など引き続き人間である治療者として高度な経験と技術が求められる。
また、100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は出版された時点で既に覆されていた[4]との報告を待つまでもなく、臨床研究による知見は常に覆されうるものであることを念頭に、最新の情報を当たることも重要である。
[編集] 臨床研究
EBMを実践する上で十分なエビデンスが見つからない場合、もしその疑問が臨床上重要なテーマであり、倫理上の問題がなく、資金的・人員的に実際に行える規模の研究であれば、臨床研究として掘り下げることができる。
[編集] 観察研究
研究を目的とした治療を行うのではなく、すでに行われている治療の効果やその予後を観察する研究デザイン。長期間かけて発症する疾患や、稀にしか見られない疾患も対象にすることができる。
要因と結果との相関の強さは定量的に測定できるが、因果関係を証明することはできない。
- 症例報告(case report)
- 個別の症例の治療を経験した後に、教科書的な経過をたどらなかったもの、あるいは教科書的な治療を超える工夫を行ったものについて、今後の参考に資するために詳細を報告する。ごく稀に見る疾患の場合には今後の治療に直接参考になる他、未知の疾患を最初に報告するきっかけとなる。
- 症例シリーズ報告(case series)
- 単独または少数の施設にある疾患の患者が集まっている場合に、過去の治療内容や予後を集計して一覧化する。稀に見る疾患の場合などに、治療と効果や有害事象との相関関係の仮説を示唆できることがある。
- 症例対照研究(case-control study)
- 疾病や有害事象を生じたグループと、生じなかったグループのそれぞれについて、投薬や公害への曝露などの背景因子の有無を調べる。曝露と結果の相関の強さをオッズ比として定量的に評価できる。
- コホート研究(cohort study)
- 異なる生活習慣・疾患・治療などを経験した複数の集団を一定期間追跡し、予め定められた疾患などのイベント発生割合を比較する。曝露と結果の相関の強さを相対危険度として定量的に評価できる。保険診療データなど大規模なデータにアクセスできる場合、発症に影響するさまざまな要因を列挙したり、その相互関係も洗い出したりことができる。
-
- 予後予測ルール(clinical prediction rule)
- 患者の年齢性別や基礎疾患、検査データなど、コホート研究の成果を利用して疾患の予後予測のモデルを作成する。多くは「重症度スコア」の形式で発表される。
[編集] 介入研究
研究を目的として実験的に治療などの介入を行う。長期間かかって発症する疾患には用いにくいほか、倫理的な理由から副作用や有害事象の評価を主目的とする研究には用いない。
- 前後比較研究(before-after study)
- 個人または集団を対象に介入前・介入後の2回以上の観察を行って比較する。観察者の主観を排することが難しく、治療効果の判定にはほとんど用いられない。クロスオーバー試験やN-of-1試験などランダム化を加えた手法に取って代わられつつある。
- クロスオーバー試験・N-of-1試験
- N-of-1試験では、複数の治療法、または実験的治療と偽薬とを、個人ごとにランダムな順序で行い、その治療効果を観察する。クロスオーバー試験では患者をグループに分けて、一群ではA→B、他群ではB→Aの順に介入を加える。各介入の間には治療効果が消失するのを待つための期間(wash-out period)が設けられる。
- 多くの参加者数を見込めない試験では有用であるが、治療の効果が見られるまでに時間がかかったり、その効果が長期間つづく(carryover)場合には用いられない。
- ランダム化比較試験(randomized controlled trial)
- 治療効果について検討する場合には、現在最もその有効性が広く認められている。
- 集団をランダムに複数の群に割り付け、一方には実験的介入を、他方には偽薬(もしくは既存の治療法)を行ってから一定期間観察し、治療効果や有害作用の有無を観察する。
- さらに厳密には二重盲検法(double blind))が取られる。「参加者がどちらの群に属しているのか」を明らかにせず、治療者・治験参加者・観察者・統計解析者の四者のうち、少なくとも二者以上からは分からないようにする。(外科手術では盲検が難しいためしばしば一者以上で十分とされる。)医師側の「この人は対照薬だから症状が改善しないはずだ」といった思いこみや、患者側の「この薬は本物のはずだから症状が良くなるはずだ」といった思いこみ(プラセボ効果)によるバイアス(偏り)の排除がその主目的である。
- 二重盲検法がとられていることはその臨床試験が全体として優れていることを保証するものではなく、研究の一側面としてバイアス対策が行なわれていることを意味している。
[編集] 二次研究
すでに発表されている論文データを再利用・再構築して、新たな次元で再評価・整理を行う研究。
- 系統的文献レビュー(systematic review)
- 特定の疑問についてすでに発表されている論文を「可能な限りくまなく」集め、メタアナリシスの手法を用いて再集計したり、もしくはその全体の傾向を記述することで、「何が分かっていて、何が分かっていないか」という学問の辺縁を明確にする。
- メタアナリシス(meta-analysis)
- 特定の疑問について、同様の研究デザインを採用した複数の研究から異なった結果が発表されている場合に、それらを再集計することにより高い精度で治療効果を予測する。十分な標本数を持たない研究でも、本手法により結果の有意性を示すことができる場合がある。
- 決断分析(decision analysis)
- 臨床現場で下す必要のある決断について、その結果として起こりうる事象を確率論的に検討し、より良い結果の得られそうな選択肢を選び出す。既存の文献や新たな調査を元に、事象の起こる確率やその重要性に対して重み付けを行う。
- 臨床ガイドライン(clinical guidelines)
- ある疾患や病態に関する系統的文献レビューをもとに現在得られるエビデンスを列挙し、治療者・患者・支払者等のコンセンサスを得ながら、標準的な治療方針をまとめる。実際の臨床現場では、患者ごとの個別の事情や医療機関の設備環境等も考慮に入れながら治療方針を決定する。
[編集] その他の研究
- 質的研究
- 漠然とした疑問を構造化し、検証可能な仮説を創り出すことを目的とする。通常は研究テーマに沿った観察研究・面接調査・アンケート調査を通じて言語データを収集し、その量的・質的分析を通じてテーマのより深い解釈を図る。方法論に定説はまだないが、グラウンデッド・セオリーや構造化面接といった手法が提唱されている。
[編集] 展望
「根拠に基づいた医療」に則った考え方は徐々に浸透し、有効なエビデンスを集積した論文集や教科書が出版されるようになった。当初はエビデンスのある治療法はごく少数しかなかったが、現在では3割を超えたという報告もあり、医療機関における治療方法の差も縮まってきている。またEBMの手順を経て過去にデータが得られない疑問は即ち臨床研究の対象となる潜在性を秘めており、EBMは臨床研究の普及にも大きな役割を果たしている。
また第1〜3段階の成果を診療ガイドラインとしてまとめることでEBMをより普及させようとする試みも日本・海外を問わず広がっている。
アメリカでは国家事業としてNGC(National Guideline Clearinghouse)がEBMに沿った診療ガイドラインをウェブサイトで公開している。
日本では日本医療機能評価機構がMindsというサービスでEBMに沿った診療ガイドラインをウェブサイトで公開している。これは厚生労働科学研究費で作成された診療ガイドラインであり、厚生科研EBM福井班による「診療ガイドラインの作成の手順」に則って作成されている。
詳細は診療ガイドラインを参照
電子カルテが普及している国々では、入力された患者データに基づいて推奨される治療の選択肢が示され、患者を中心とした治療方針の決定を支援する判断支援ソフト(decision aid)と呼ばれるツールも開発されつつある。
さらに、EBMの有用性が認められるにつれて、医学の周辺領域にも根拠に基づいた判断を目指す動きが広がっている。
- 例: Structure-construction evidence-based rehabilitation(SCEBR), Evidence-based health policy (EBHP), Evidence-based nursing (EBN), Evidence-based midwifery (EBM)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ^ Guyatt G, Cairns J, Churchill D, et al. [‘Evidence-Based Medicine Working Group’] "Evidence-based medicine. A new approach to teaching the practice of medicine." JAMA 1992;268:2420-5. PMID 1404801
- ^ Robert M. Wachter, Peter J. Pronovost. "The 100,000 Lives Campaign:A Scientific and Policy Review" ,Journal on Quality and Patient Safety 32(11), November 2006
- ^ Clinicians for the Restoration of Autonomous Practice (CRAP) Writing Group. EBM: unmasking the ugly truth. BMJ 2002 Dec 21;325(7378):1496-8. 「根拠に基づく医療」をカルト宗教になぞらえるジョーク論文。上述の、“単に決められたガイドラインを適用するだけの機械的医療”に陥ることに皮肉を込めた警鐘を鳴らしている
- ^ Shojania KG, Sampson M, Ansari MT, Ji J, Doucette S, Moher D. "How Quickly Do Systematic Reviews Go Out of Date? A Survival Analysis." Ann Intern Med. 2007 Jul 16 PMID 17638714
[編集] 外部リンク
- CASP Japan
- 関連リンク集
- 厚生科研EBM福井班ホームページ
- EBMジャーナル (中山書店)
- The SPELL:EBMと生涯学習の広場
- NGC - National Guideline Clearinghouse EBM診療ガイドラインを公開(アメリカの国家事業)
- Minds 医療情報サービス EBM診療ガイドラインの公開(日本医療機能評価機構、厚生労働科学研究費補助金)
- 診療ガイドラインの作成の手順 (Minds 医療情報サービス)