柴進
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柴進(さい しん、Chái Jìn)は中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。
梁山泊第十位の好漢。天貴星の生まれ変わり。あだ名は「小旋風(しょうせんぷう)」。由来は不明だが、彼の邸にはつねに数十人の一癖も二癖もある食客らが住み、つむじ風のように小さなトラブルが頻繁に起きていたから、もしくは無頼漢を多く養う彼の邸宅の存在自体がつむじ風のような波乱を予感させるからか。
生まれながらにして高貴な顔つきを備え、見た者を圧倒させる威厳を持つ、面倒見のいい大人。 北宋の前代の王朝である後周の最後の皇帝・世宗(柴栄)の末裔として設定されており、現王朝に禅譲した経緯から、子孫である彼の滄州横海郡の広大な邸宅は、皇帝から丹書鉄券(お墨付き)を与えられており、一種の治外法権を認められ、様々な食客が養われていた。そのため東渓村の晁蓋、鄆城県の宋江と並ぶ人格者として侠気を讃えられていた。
梁山泊のメンバーの中では、林冲、武松、宋江、李逵、石勇などが柴進の屋敷に一時期世話になっている。
注意:以降の記述で物語・作品に関する核心部分が明かされています。
[編集] 生涯
滄州横海郡に大邸宅を構えていた柴進は、当地へ流罪となって送られてきた林冲をもてなす。同邸に食客として滞在していた高慢な洪教頭に棒術勝負を挑まれ、いとも簡単に勝利した林冲を喝采し、以来親交を結ぶ。林冲が高俅からの刺客を殺し、お尋ね者となると、屋敷の内に匿う。
また、力自慢の武松も柴進を頼って屋敷を訪れていた。その後、誤って殺人を犯した宋江もまた柴進を頼ってきた。二人は誤解から喧嘩を始めるが、柴進の仲介で意気投合し、義兄弟の契りを結ぶ。宋江はその後、梁山泊に入るが、同郷の朱仝を梁山泊入りさせるため、弟分の李逵に朱仝の主人である滄州の知府の息子を殺させる。激怒した朱仝は、李逵に深い恨みを抱き、ほとぼりが冷めるまで、李逵は柴進の屋敷へ預けられることとなった。
その頃、高唐州に住む柴進の叔父・柴皇城が、高唐州の知府・高廉の義弟である殷天錫に脅迫され、庭園を奪われた挙げ句、殺されてしまうという事件があった。柴進が仏事を取り仕切っている最中、殷天錫は屋敷の明け渡しを迫る。付き添っていた李逵がその行為に怒り、殷天錫を殺してしまう。柴進は、後難を避けるため、李逵を梁山泊へ返した後、役所へ届けて弁解を試みるが、親族を殺された高廉は聞く耳を持たず、柴進は捕らえられて拷問され、殷天錫殺しの濡れ衣を被せられて死刑囚用の牢に入れられた。
李逵から顛末を聞いた梁山泊の人々は、柴進救出のため、宋江を総大将として高唐州へ攻め寄せるが、妖術を操る高廉の前に手を焼く。結局、道術の修業中であった公孫勝を呼び寄せることで高廉の術を封じ、ついに高唐州を陥落させて柴進救出に成功。柴進はそのまま梁山泊入りした。
晁蓋亡き後、宋江が梁山泊の首領となってからは、柴進は後軍の寨の守りを務めた。北京の大商人・盧俊義を仲間に引き入れようとして失敗し、盧俊義が捕らわれると、戴宗とともに北京へ赴き、牢役人の蔡福に黄金を渡して助命嘆願した。のち、梁山泊軍が北京を落とした際に、柴進は蔡福の手引きにより、捕らわれていた盧俊義、石秀らを解放した。
108星勢揃いの後は、第十位の好漢として、金銭・糧食を司る頭領となり李応とともに梁山泊の会計を務めた。宋江が都・東京へ元宵節の灯籠見物に赴いた際には、これに同行。燕青を引き連れ、役人のふりをして宮廷内に潜入する。そこに四大寇として「山東宋江」「江南方臘」「淮西王慶」「河北田虎」が挙げられているのを見て、山東宋江の文字を切り取って帰った。
方臘征伐においては、柴進は「柯引」と変名して燕青(雲璧と変名)とともに敵の本拠に潜入し、金芝公主と結婚して駙馬(娘婿)となり、主爵都尉に任命される。方臘軍の将として出陣し、宋江らがわざと負けるのを見て方臘は安心する。が、柴進はその油断を利用し、逆に燕青とともに方杰を討ち取り、方臘の宮殿・幫源洞を大混乱に陥れ、梁山泊軍を招き入れる功績を挙げた。
方臘征伐終了後は武節将軍・横海郡都統制に任命されるが、持病を理由に固辞。滄州横海郡に帰郷して庶民に戻った。悲劇的な末路を迎えた梁山泊の多くの面々とは異なり、普通に天寿を全うした。
[編集] 補足
柴進は、『水滸伝』の原型といわれる『大宋宣和遺事』にもすでに登場している(ただし役柄は異なる)。