板倉重宗
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板倉 重宗(いたくら しげむね、天正14年(1586年) - 明暦2年12月1日(1657年1月15日))は、江戸時代初期の譜代大名、京都所司代。
[編集] 経歴
板倉勝重の長男。母は粟生永勝の娘。周防守を称する。正室は成瀬正成の娘、継室は戸田氏鉄の娘、戸田氏信の娘。子に重郷、重形、内藤正勝室、太田資宗室、遠藤慶利室、森川重政室、松平光重室(戸田氏鉄養女)、松平輝綱室、市橋政信室、松平典信室らがいる。徳川家康に早くから近侍して、大いに気に入られた。関ヶ原の戦いや大坂の陣(このときは小姓組番頭)にも参陣した。同時期の小姓組番頭は他に五名おり、それぞれ、水野忠元、井上正就、大久保教隆、成瀬正武、日下部正冬。
元和6年(1620年)、父の推挙により、京都所司代となる。承応3年(1654年)12月6日まで30年以上にわたって在職。朝廷との交渉・調整の任にあたった。明暦2年(1656年)8月5日、下総国関宿藩に転ずる。この年、関宿で死去。
勝重と重宗は、親子二代でありながら世襲職ではない所司代の職に就任しているのを見てもわかるように、その卓越した政治手腕は徳川氏に大いに信頼されていた。それは『板倉政要』によって現在にも伝えられているが、この史料は過大評価もあると言われている。だが、この親子以外に所司代に親子二代にわたって就任した例は無いのをみてもわかるように、優れていたことは間違いないだろう。
こんな話が残っている。ある日、父の勝重が重宗と後に島原の乱で討死した弟の板倉重昌に、ある訴訟の是非について答えよと言った時に、重昌はその場で返答したが重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという。このような姿勢は、京都所司代になってからも見られ、訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、傍らにはお茶を用意することによって、当事者の顔を見ないようにして心を落ち着かせ(人相などで)いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという。 そんな重宗も朝廷対策には苦労していた。後光明天皇には「切腹して見せよ」とやりこめられている。
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