松田元賢
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松田 元賢(まつだ もとかた、生年不詳 - 永禄11年7月7日(1568年7月31日))は戦国武将。通称は孫次郎。松田元輝の長男。松田元脩の兄。正室は宇喜多直家の娘。
永禄5年(1562年)、浦上氏家臣・宇喜多直家からの和議の申し入れを父・松田元輝が了承。長年、対立してきた浦上氏との和睦が成立した際に宇喜多直家の娘を娶り婚姻関係を結ぶ。
それからしばらくは平穏な関係が続いていたが明禅寺合戦の際に援軍を出さなかった事で直家の不興を買う。
そして永禄11年(1568年)、金川城周辺で開かれた鹿狩りの際に、松田氏の中心人物であった宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で宇喜多側の人間によって弓で射ち殺されるなど次第に不審な動きを見せ始める。
そしてこの年の7月5日、ついに宇喜多直家は前もって調略によって寝返らせていた松田氏の重臣・伊賀久隆(直家の妹婿でもある)に金川城を包囲させる。やむなく元賢も手勢と共に篭城戦を行うがその際に伊賀勢の鉄砲で父・松田元輝が射殺され、父に替わって指揮を執る事となる。
翌6日、直家も金川城に手勢を繰り出し、伊賀勢と合流して本丸を朝から晩まで攻め立てる。 元賢もよく防戦し寄せ手にも多数の死者を出させるが多勢に無勢でありもはや本丸を支えきれない事を悟ると弟、元脩を伴い夜闇に紛れ密かに城を脱出する。大将が離脱した事により部下の多くも金川城から退去、程なくして伊賀久隆に城門の守りを破られ、退去せず城に残った松田氏譜代の家臣達は城を枕に悉く討ち死にし金川城は落城する。
城から退去する事に成功した元賢は、西の山伝いに下田村まで逃げのびたが7日の未明、伊賀の伏兵によって発見されると刀を抜き、敵陣に斬り入って討ち死したという。
知らせを聞いた正室の宇喜多直家の娘も程なくして自害。13代、235年間続いた松田氏は滅亡した。
これ以来この地では七夕祭りが長い間、行わなくなったという。
[編集] 元賢と日蓮宗
松田氏は代々の当主が日蓮宗の寺院に保護を与えただけでなく、進出した先の他宗の寺院を強制的に改宗させたといわれているが、松田元輝・元賢親子もその例に漏れず領内の寺院を強制的に日蓮宗に改宗させ、従わない寺院を焼き払ったという。
また、金川城内にも日蓮宗の道場を設け(道林寺丸跡がこの道場のあった場所である)、領内の者に改宗を強いて反感を買った。 結局、こうした行過ぎた信仰の押し付けは重臣である伊賀久隆の離反などに繋がっていく。