松平忠誨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 享和3年7月14日(1803年8月30日) | |||
死没 | 文政12年8月27日(1829年9月24日) | |||
別名 | 田鶴千代、与一(幼名) | |||
戒名 | 保誉道俊尚徳院 | |||
官位 | 従五位下、遠江守 | |||
藩 | 摂津尼崎藩主 | |||
氏族 | 松平氏(桜井松平家) | |||
父母 | 父:松平忠宝、母:土屋篤直の娘・八百子 | |||
妻 | 正室:青山忠裕の娘 | |||
子 | 実子なし、養子:松平忠栄 |
松平 忠誨(まつだいら ただのり)は、江戸時代の人物。摂津尼崎藩の第5代藩主。尼崎藩桜井松平家8代。
享和3年(1803年)7月14日、第4代藩主・松平忠宝の次男として生まれる。兄の早世で世子に指名され、文化10年(1813年)4月14日の父の隠居により、家督を継いで第5代藩主となった。
文政12年(1829年)4月に死去した父の後を追うように、8月27日に死去した。享年27。子が無かったため、叔父の松平忠栄が養子となって後を継いだ。
[編集] 関連項目
|
|
|