松平忠恕 (島原藩主)
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松平 忠恕(まつだいら ただひろ)は、江戸時代の大名。下野宇都宮藩主、肥前島原藩深溝(ふこうず)松平家第7代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元文5年(1740年) | |||
死没 | 寛政4年4月27日(1792年6月16日) | |||
別名 | 八十之助(幼名) | |||
戒名 | 瑞応院殿麒岳源麟 | |||
官位 | 従五位下、主殿頭、大和守、飛騨守 | |||
藩 | 下野宇都宮藩→肥前島原藩 | |||
氏族 | 深溝松平家 | |||
父母 | 父:松平忠刻、母:土屋氏 | |||
兄弟 | 松平忠祗、松平忠恕 | |||
妻 | 正室:真田信安の女 | |||
子 | 10男7女(松平忠馮、大久保忠成、 娘(梅渓通同室→植村家長室)、 娘(土井利謙室)、娘(松平信古室)、 娘(内田正肥室) |
元文5年(1740年)、深溝(ふこうず)松平家第5代藩主・忠刻の次男として生まれた。宝暦12年(1762年)兄忠祗の隠居に伴い後を継ぐ。深溝松平家は、代々島原藩主として九州の隠れ目付役的存在であったが、兄・忠祗が父・忠刻の急死を受け寛延2年(1749年)、12歳の若さで家督を継いだことから、その年、下野宇都宮藩の戸田忠盈と交代する形で宇都宮に移封されていた。忠恕が家督を継承後、安永4年(1775年)に再度戸田氏と交代転封し、先祖伝来の島原藩に戻された。
寛政4年(1792年)4月1日、普賢岳眉山が激震と共に大崩落を起こし島原城下の大半が埋没し、死者1万5千人とも言われる島原大変が発生。病弱であった忠恕は被災地巡視を行うなどしたが、心労が重なったこともあり、4月27日に逝去。悲運の藩主と呼ばれている。
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