松平信興
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永7年8月11日(1630年9月17日) | |||
死没 | 元禄4年閏8月12日(1691年10月3日) | |||
改名 | 治綱、基綱、信衡、興衡、信興 | |||
別名 | 釆女(幼名) | |||
官位 | 従四位下、侍従、美濃守、因幡守 | |||
幕府 | 江戸幕府若年寄、大坂城代、京都所司代 | |||
藩 | 常陸国土浦藩主→摂津・河内国内 | |||
氏族 | 大河内松平家 | |||
父母 | 父:松平信綱、母:井上正就の長女 | |||
兄弟 | 松平輝綱、松平吉綱、松平信定 松平信興、松平堅綱 |
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妻 | 正室:青山幸利の娘 | |||
子 | 養子:松平斐章、松平輝貞 |
松平 信興(まつだいら のぶおき)は、江戸時代の大名(常陸国土浦藩など)、若年寄、大坂城代、京都所司代。高崎藩系大河内松平家初代。
松平信綱の五男、母は井上正就の長女。幼名・采女。はじめ治綱、基綱、信衡、興衡などと名乗った。正室は青山幸利の娘。養子に松平斐章、松平輝貞。
徳川家綱の側近として中奥小姓、小姓組番頭、御側などを務めたほか、若年寄、大坂城代、京都所司代などの要職も歴任した。長らく雑兵物語の作者に擬せられてきたが、実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)没、後を養子の輝貞が継いだ。
[編集] 経歴
- 寛文2年(1662年)4月18日、兄輝綱より、新田五千石を分与される。
- 延宝7年(1679年)7月10日、若年寄に任ぜられる。1万2千石を領し、大名に列する。
- 天和2年(1682年)2月19日、2万2千石をもって土浦藩主となる。
- 貞享4年(1687年)10月13日、1万石を加増され大坂城代となり、摂津国・河内国内へ移封。
- 元禄3年(1690年)12月26日、従四位下・侍従となり、京都所司代に転ずる。
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