松平信利
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 万治2年4月24日(1659年6月13日) | |||
死没 | 延宝4年11月28日(1677年1月1日) | |||
別名 | 又七郎(幼名) | |||
戒名 | 浄光院法誉源受 | |||
墓所 | 京都府亀岡市古世町の光忠寺 | |||
官位 | 従五位下、主膳正 | |||
藩 | 丹波篠山藩主 | |||
氏族 | 形原松平家 | |||
父母 | 父:松平典信 母:板倉重宗の娘・専称院 |
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子 | 松平信利、妹(松平光永室) 妹(内藤忠次室→中山信行室) 妹(戸田重恒室)、松平信孝 妹(松平忠充室)、妹(松平氏辰室) 松平信庸、妹(永井直敬室) 妹(松平近禎室) |
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妻 | 正室:なし | |||
子 | 実子なし。養子:松平信庸 |
松平 信利(まつだいら のぶとし)は、丹波篠山藩の第3代藩主。丹波亀山藩形原松平家4代。
万治2年(1659年)4月24日、第2代藩主・松平典信の次男として江戸で生まれる。寛文12年(1672年)11月に父が死去したため、寛文13年(1673年)1月19日に家督を継いで第3代藩主となった。12月28日に従五位下・主膳正に叙位・任官する。
しかし若年のため、藩政は隠居していた祖父の松平康信によって行なわれた。延宝3年(1675年)5月、参勤交代で江戸に向かう途中で発病したため、篠山に帰国する。しかし病状は好転せず、延宝4年(1676年)11月28日に篠山で死去した。享年18。後を同母弟で養子の松平信庸が継いだ。
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