本間千代子
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本間 千代子(ほんま ちよこ、本名同じ、1945年1月29日 - )は、日本の歌手、女優。
子供の頃から児童合唱団に所属し、童謡歌手として活躍。児童劇団にも所属していたが、昭和38年(1963年)頃から清楚な容姿を生かして青春映画に出演。また透き通る清純な声で多くの青春歌謡を歌った。当時雑誌の人気投票で吉永小百合などを抜いて1位になることもあり、ブロマイド売上げでも高位をキープしていた。しかし、21歳で結婚してしだいに芸能活動から遠ざかり、30代で再婚して以降は完全に引退。ビデオが普及する少し前だったため残された映像は少なく、幻の青春スターでもある。代表曲は『若草の丘』『愛しあうには早すぎて』『白いボール』などで、LP3枚、EP20数枚のレコードを出したが、今も人気が高く取引されている。代表主演青春映画は『君たちがいて僕がいた』『十七才のこの胸に』『あの雲に歌おう』など、一部はDVDで市販されている。
愛称「チョコ」、目の白い部分に点があることから「星の瞳をもつ少女」とも呼ばれた。 「しまった、しまった島倉千代子」と同じ伝で「ほんま、ほんま本間千代子」のギャグは人口に膾炙した。
[編集] 生い立ち
昭和20年(1945年)1月29日、日本銀行勤務の本間正雄と高恵の二男二女の次女として、疎開先の長野県伊那町(現・伊那市)で生まれる。同年10月に東京都杉並区西荻窪に移り、近くの「かしの実幼稚園」に入る。そのころから歌に興味を持ち、NHK「うたのおばさん」であった安西愛子(後参議院議員)から童謡を習う。杉並区立高井戸第四小学校に通うようになってからは「みすず児童合唱団」で歌の勉強を続ける。先生はやがて姉明子の夫となる冨田勲(シンセサイザーアーティストとして著名)であった。その後ポリドール児童合唱団に所属し、昭和26年(1951年)1月にはNHKから『けんけん小雉』『お菓子』が放送される(同合唱団には倍賞千恵子がいて、その後も友好を保つ)。小学校4年のとき杉並の杉並区立松庵小学校に転校、この頃から神奈川県横浜市鶴見区にあった「ひばり児童合唱団」に往復4時間かけて通うようになる(同合唱団には松島トモ子がいて,その後も友好を保つ)。合唱団団長の皆川和子に認められ、洗足池近くの氏の家で個人レッスンを受けるようになり(この頃個人レッスンを受けていた一人に吉永小百合がいて、その後も友好を保つ)、オペレッタ『みにくいあひるの子』の主演をする。この頃コロムビア専属の童謡歌手となる(コロムビアでは30数曲の童謡を吹き込む)。
昭和32年(1957年)、姉明子と同じ三鷹台にある立教女学院中等部に入学。東映映画の音楽を担当していた義兄冨田勲の勧めで撮影所に出入りするようになり山崎所長の知遇を得て、昭和33年(1958年)8月東映児童研修所の第1期生となる。すぐに『六人姉妹』に出演、この映画は翌年教育映画最優秀作品賞を受賞、同時に東映大川社長から顕彰される(教育映画は『くつした』『空をかける友情』など7本に出演)。研修所を卒業し東映児童劇団に進み、昭和36年(1961年)11月にクランクインした高倉健主演のアクション映画でのちにシリーズ化される『恋と太陽とギャング』に千葉真一の妹役留美子役で本格デビュー。その4ヵ月後『歌う明星・青春がいっぱい』に渥美清の妹役として出演し、清純派としての映画スターの地位を確立する。
昭和39年(1964年)には日本映画製作者協会の第九回エランドール賞新人賞を市川染五郎や松原智恵子などと共に受ける。この頃人気は過熱し,爆破狂草加次郎を名乗るものから脅迫文が届き警察沙汰になって世間を驚かせた(草加次郎事件は未解決)。昭和40年(1965年)度のNHKの大河ドラマ『太閤記』で豊臣五奉行の一人浅野長政の妻ややとして出演する。この頃を中心に多くのレコードを吹き込み、青春映画に出演する(詳細次表)。
昭和41年(1966年)、歌手の守屋浩と結婚するが、後に離婚。昭和51年(1976年)、ひのきしんじと再婚して芸能界を引退している。また「あたらしかずよ」の名義で作詞を手掛け、その作品『熱愛』(歌・五木ひろし)は、昭和53年(1978年)の日本作詞大賞を受賞。学生時代から石原裕次郎の熱烈なファンとしても知られ、子育てが一段落し48歳になった平成5年(1993年)に裕次郎の母校に憧れ、慶應義塾大学文学部(通信教育課程)に入学。6年かけて、平成11年(1999年)3月に卒業を果たしている。
[編集] 主なレコード
(「発売年」「A面」「B面」「コメント」)
- 1957年以前、「おうま」「お人形の病気」「じてんしゃ」「遊園地のうた」「ぽっぽの郵便やさん」「まつりばやし」など36曲 ※SP盤
- 1963年、「若草の丘」「この心ある限り」 ※明星募集歌、東映映画「若草の丘」主題歌(映画は製作されなかったようである)、復刻盤が有る
- 1963年、「純愛の白い砂」「私はついてない」 ※復刻盤が有る
- 1963年、「―」「蛍の光」 ※A面は舟木一夫、「蛍の光」は小学生唱歌
- 1964年、「はじめて愛する」「愛しき雲よ」 ※B面は東映映画「あの雲に歌おう」主題歌
- 1964年、「―」「さあさ踊ろよ」 ※A面は他歌手、B面は舟木一夫等と一緒
- 1964年、「愛しあうには早すぎて」「海ほうずきの頃」 ※A面は東映映画「君たちがいて僕がいた」挿入歌、復刻盤が有る
- 1964年、「湖畔の乙女」「小舟で逢ってくださいな」 ※A面の作詞は詩人佐藤春夫
- 1964年、「夢のハワイで盆踊り」「わかもの行進曲」 ※A面は舟木一夫などと一緒、B面は高橋元太郎と一緒
- 1964年、「からたちの町」「誰かのマンドリン」
- 1964年、「―」「ごきげんハイウェイ」 ※A面は他歌手
- 1964年、「星のように花のように」「たださびしかっただけ」
- 1964年、「夕月の歌」「―」 ※コダマプレス社、ソノシート、B面は他歌手
- 1964年、「白い夜」「―」 ※コダマプレス社、ソノシート、B面は他歌手
- 1965年、「しあわせな涙」「あなたといっしょに」
- 1965年、「チコと一緒に」「東京のためいき」 ※NTVドラマ「チコと一緒に」主題歌
- 1965年、「うそでもいいから」「娘たちの季節」 ※フジテレビドラマ「娘たちの季節」主題歌
- 1965年、「白いボール」「―」 ※A面は王貞治と一緒
- 1965年、「心のキャンパス十二号」「また逢えるわね」
- 1965年、「ガラスの靴で踊りたい」「哀愁のシャンデリア」
- 1966年、「また逢う日まで」「星につれていって」
- 1966年、「月の浜辺で逢ったひと」「悲しい記念日」
- 1966年、「山ゆり峠」「私に云わせてさよならは」
- 1966年、「若い海」「白いサキソフォン」
- 1969年、「三百六十五夜」「恋の曼珠沙華」 ※原曲は新東宝映画「三百六十五夜」主題歌、競作曲
- 1964年、LP盤「本間千代子の花のステージ」 ※「私はついていない」を収録
- 1964年、10インチ盤「本間千代子のヒット・ショー」
- 1964年、LP盤「本間千代子の花のステージ」 ※「来る・こない・来る・こない」を収録
- 1964年、EPサイズ、「本間千代子愛唱集」 ※4曲入り
*本間千代子の曲は,オムニバス方式の懐かしのCDなどに収録されているが,彼女だけのCDは発売されていない。
[編集] 主な出演青春映画
(「公開年」「映画タイトル」「寸評」「本間千代子の演じた役」)
- 1962年、「歌う明星 青春がいっぱい」、アイドル雑誌「明星」を舞台にしたミュージカル映画 ※渥美清の妹役
- 1964年、「君たちがいて僕がいた」、小田原の高校で生徒と先生で繰り広げられる青春映画 ※舟木一夫と共演で受験生役、DVDが有る
- 1964年、「夢のハワイで盆踊り」、当時夢であったハワイで盆踊りを実現するという青春映画 ※舟木一夫と共演で令嬢役、DVDが有る
- 1964年、「十七才のこの胸に」、鹿児島開聞岳を舞台にした旧家御曹司と農家の娘との青春映画 ※西郷輝彦と共演で農家の娘役
- 1965年、「あの雲に歌おう」、学友や憧れの先生が巻き起こす学園ものの青春映画 ※西郷輝彦と共演で女子高校生役
- 1965年、「可愛いあの娘」、信州から上京し幼馴染みと再会、保母になる夢に向かって進む青春映画 ※梶光夫と共演で都会で働く娘役
- 1965年、「おゝい、雲!」、浪人生活をおくる主人公を中心とした青春映画、原作石原慎太郎 ※建築雑誌社社長令嬢役