木曾家村
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木曾 家村(きそ いえむら、正応5年(1292年) - 延元4年/暦応2年(1339年)頃)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。通称は又太郎家邨という。木曾家7代当主。
木曾義仲七世孫、基宗六世孫とされ、家教の長子、大石信重の兄。太郎義親・安食野次郎家昌・三郎家景・四郎家満らの父。
[編集] 経歴
彼の事項は木曾家の家譜『高遠記集成』(『木曽福島町史』)に見える。それによると、元々は上野沼田の豪族で、母方の秀郷流沼田氏の庇護を受けたという。
やがて、家村は徐々に実力を蓄えて、次弟の家定・三弟の大石信重・末弟の家道とともに北朝方として挙兵し、足利尊氏の傘下に入ったという。
建武2年(1335年)の中先代の乱で、信州で諏訪頼重とともに挙兵した北条時行の軍勢と激突し、これを大破し戦功を収めたという。
このことから、家村は尊氏から絶賛され、安曇郡上野(牧野)・西光寺(松本市梓川)・西牧(同松本市)・筑摩郡・洗馬(塩尻市)・伊那郡高遠(伊那市高遠町)という木曾谷を中心とした広大な領土を賜ったという。さらに、近江国の浅須摩・知久間・四ツ木・川瀬をも与えられ、木曽家復興の祖と称したという。
しかし、彼の四人の息子達は父に先立って夭折したため、そこで甥の家頼(家道の子)を養子に迎えて、家督を譲って逝去したという。