朝鮮半島で多用される「倭」
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朝鮮半島における「倭」とは「倭」の項目に記しきれなかった倭」の使用法「日本」の呼称問題の詳細である。
[編集] 概要
唐以後、宋や元ではほとんど「日本」ないし「日本国」が用いられていたが、高麗、李氏朝鮮などでは大半が「倭」「倭奴」などと綴られている。代表的な例では、応永の外寇をいいわけするため日本に使いした宋希璟という文人が、報告書とともに王・世宗にたてまつるために書いた詩文集『老松堂日本行録』1420があげられる。食事の世話をしてくれた者にまで「倭奴」とよび、わけもなく威張り散らす尊大な態度で国威を揚げたなどと一人合点し、「手柄話」を全編連綿と羅列している。[1]
ただし、正式な国書などでは「日本国」を用いるなど、宗主国である元や明の礼儀にしたがっているものもあり、「倭」の蔑称は国史など公式な文書とはいえ大部分は朝鮮国内の内向きな文書や、そこに記録された日常会話で用いられたにすぎない。
『世宗実録』では、足利義持に「明の暦を使っている」と非難されたことに狼狽し、「妄言だ」などとわめき散らす世宗、太宗親子の姿態がありのままに記録されている。[2]
これらは豊臣秀吉の朝鮮出兵のさいにいわゆる「分捕り本」を通じて発覚。雨森芳州らが江戸期に再三改善を求めたが、朝鮮の指導者らはけして受け入れようとせず、「倭奴に唐人などとよばれている我が方こそ被害者」と主張した。意図的に粗末に作らせた倭館などの施設名もけして改めなかったし、王の「生き位牌」などをとりだして礼拝を強要した。なかには自分が南面し、王のようにふるまった朝鮮役人もおり、中世にはこれを咎めた日本の使者に殴りかかってくるという事件もおこしているなど、自尊自大な行為の被害が絶えなかった[3](『高麗史』[4])。
1763年の朝鮮通信使の一人だった元重挙書いた『和国志』には日本語で「倭」と「和」は同じ発音で、日本人も日本を和、あるいは倭と呼んでいるが、対馬島の人だけは倭と呼ばれることを嫌やがると書かれている。
日本では外国人を「韓」とか「狛」などと「人」をつけずに動物のように呼ぶ慣習はないが、古く高句麗の金石文「好太王碑」には異民族の守墓奴隷を「韓」やら「濊」やらと民族名で呼び捨てに記した例がある。
それで国威が揚がるとか、自尊心の表現だなどと固く信じ込まれている。日韓併合や秀吉の征伐は蔑号の成立とは何の因果もないが、正当化のための絶好の材料として利用されている。