早川種三
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早川 種三(はやかわ たねぞう、明治30年(1897年)6月6日 - 平成3年(1993年))は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、企業再建の神様と呼ばれている。
[編集] 経歴
宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛 長子の子として生まれる。父智寛は下級武士早川慶兵衛の長男として小倉に生まれ明治以降は仙台市長、宮城郡会議長等を務めた人物。母長子は岐阜・大垣の殿様戸田氏の娘。
慶應義塾大学在学中は茶屋遊びや登山にふけり、5回落第し、卒業するのに10年もかかった。
卒業後ペンキ屋を起業するが、得意先の東京建鐵が経営不振に陥り経営陣に迎えられる。これを切っ掛けとして早川の企業再建請負人としてのキャリアをスタートする。
戦後、日本特殊鋼(現・大同特殊鋼)・佐藤造機(現・三菱農機)の管財人を務め、1974年に当時史上最大の倒産と言われた興人の経営破綻にあたって周囲から推される格好で管財人に推された。早川の指揮の下、興人は1989年に再建を完了した。
[編集] 早川の企業再建方針
従業員のやる気を如何に引き出すかが重要であるとの持論を持ち、企業が経営破綻したのは従業員が働き難い環境に陥っているからだと考えていた。
興人の再建にあたっても全従業員に経営破綻の原因を分析させ、部下・特に中間管理職が経営陣に意見具申できず、結果として経営陣の暴走を許してしまったことが経営破綻を招いたと結論づけている。
従業員のやる気さえあれば如何なる思想信条をも許容し、「働いてもらえさえすれば共産党でも大本教でも構わない」とまで言っている。
また、早川は企業再建に取り組みはするが、再建が完了すると経営から手を引く潔さもあった。こうした早川の経営姿勢は同じ企業再建の名手とも言われた坪内寿夫とは一種好対照を示すものであり、坪内の様なワンマン的経営姿勢に対しては早川は批判的だった。