日活芸術学院
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日活芸術学院(にっかつげいじゅつがくいん)は映画会社の日活が経営する映画学校。英文表記はNikkatsu Visual Arts Academy。所在地は東京都調布市染地2-8-12。北緯35度38分19秒、東経139度33分8秒。
1975年に日活撮影所内の一角に設立された。日本では唯一、映画撮影所内に存在する学校であり、現存する映画学校としては日本映画学校と並び最も歴史が長い。映像科・演技科の2学科に夜間コースの企画・シナリオ専科を加えた3科で構成されており、映像科・演技科はさらに過程中に細分化されていく。
大林宣彦など数多くの著名映画人による特別講義と、一部の優秀生徒を実際の撮影現場に送り出す「現場実習制度」を売りにしており、ここでつかんだ人脈を糧に数多くの卒業生が現場スタッフとして活動している。一方、30年もの歴史の中でそれだけの卒業生を送り出しながらも、スタッフ・俳優ともにいわゆる著名人物をほとんど輩出できていないことは日本映画学校・東放学園映画専門学校などと比較した場合の問題点とされ、これは特に演技科において深刻である。また、講師陣の高齢化、校舎や設備・機材の不足・極端な老朽化など他の映画学校にはない問題も抱えている。
なお学校名に「専門学校」と名乗っていないのは、日活という営利企業が直接経営を行っているため学校教育法における「各種学校」に分類されるためである。日活は現場との緊密な連携や資材の共有を行うためには一体経営が不可欠だとしているが、生徒間では「借りられる資材はガラクタばかり」との認識が強く、内容の割に高い学費に着目して「日活の経営再建費用に流用されているのでは」との憶測も広まっている。これは当然ながらただの憶測に過ぎず、明確な根拠は存在しないが、しかしながらこの学院事業はそもそも本社ビルや撮影所を含む抜本的な資産整理を迫られていた経営危機時代にロマンポルノと並ぶ新収入源として開始されたものであり、また1993年の日活倒産後にナムコ主導で行われた再建活動においても事業切捨ての対象外となっていたことから、一定以上の収益を上げていることは事実であると考えられている。
なお日活撮影所自体は2000年、件の再建活動の一環で株式会社マルに売却されている。このため現在は日活がマルから借用するかたちを取っており、日活本社および学院との一体経営体制は既に崩れている。
目次 |
[編集] 設置学科・コース
- 映像科
- 映像創作科
- 企画・製作コース
- 演出コース
- シナリオコース
- 映像技術科
- 撮影・照明コース
- 録音・オーディオコース
- 編集コース
- 映像美術科
- 美術コース
- 映像創作科
- 演技科
- 俳優科
- 声優科
- 企画・シナリオ専科
[編集] 教員
[編集] 歴代学院長
[編集] 専任講師
[編集] アクセス
- 京王線・調布駅南口4番乗場から京王電鉄バス「多摩川住宅西行」に乗車、「日活撮影所」で下車。
- 京王電鉄相模原線・京王多摩川駅から京王電鉄バス「多摩川住宅西行」に乗車、「日活撮影所」で下車。
- 小田急線・狛江駅北口バス停1番乗り場から「多摩川住宅(中央)行」に乗車、「多摩川住宅南口」で下車後徒歩10分。
- なお、狛江駅からは朝夕に各1本、学院専用のチャーター便も運航している。
[編集] 出身者
[編集] その他
- 1970年代頃から日活が「にっかつ」に社名変更していた時期には、学校も「にっかつ芸術学院」と名乗っていた。
- 2000年には創立25周年を記念し、劇場公開映画『「紅の拳銃」よ永遠に』を製作した。
- 2005年度にはそれまでの三浦朱門に代わって高村倉太郎が学院長に就いたが当初から入退院を繰り返し、同年11月21日に死去した。
- 高村倉太郎死去後、それまでの功績などを称える為と、後任が決まらないなどの理由で、学院長ポストは高村倉太郎が務めている事になっていた。その間は木村威夫が学院長代理として実務を担当していたが、そのまま2006年度を迎え、木村威夫が正式に学院長に就任した。