新青山トンネル
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新青山トンネルは、垣内トンネル(1,165m)とともに三重県伊賀市と津市白山町に跨る布引山地を貫き近畿日本鉄道(近鉄)大阪線の西青山駅~東青山駅間を結ぶ、全長5,652mにおよぶ大手私鉄最長のトンネルである。1972年(昭和47年)8月に着工し、1975年(昭和50年)11月に完成した。建設事業者は大林組(東工区)・鹿島建設(西工区)のJV工事である。
本稿では前身の青山トンネルに付いても記述する。
[編集] 概要
それまでこの区間を通る列車は、1930年(昭和5年)に開通した単線の青山トンネルを通行していた。全長3,432m、トンネル内は直線で33パーミルの勾配となっていた。トンネル西坑口の上には、同区間の建設に当たった参宮急行電鉄を設立した大阪電気軌道の当時の社長である金森又一郎の揮毫による「徳無疆」の扁額が掲げられた。徳は恩恵や加護、無疆は永遠を意味する。
トンネルの西側に旧・西青山駅が、東側に旧・東青山駅があり、両駅での列車交換が可能になっていた。東青山駅から榊原温泉口駅にかけては北へ大きく迂回する線形で、途中に列車交換用の垣内西・垣内東信号所が設けられていた。開通当時から存在した名張~中川間の41.7kmの単線区間のうち、上津~中川間の17.9kmを除く区間については1967年(昭和42年)までに複線化を完了していたが、急峻な山岳地帯が連続するため難工事が予想されていた青山トンネル付近は手が付けられないままでいた。
1971年(昭和46年)10月25日、垣内東信号所東側の単線区間にある総谷トンネル(全長356m)内で特急列車同士が衝突するという列車衝突事故(近鉄大阪線列車衝突事故を参照)が起こり、計25名(上り列車の運転士も含む)の犠牲者を出した。この事も一つの契機となり、輸送力増強と所要時間の短縮、そして抜本的な線路改良による運転保安度の改善を目的にトンネルの前後区間を含む単線区間の複線化工事を前倒しして行うこととなった。伊賀上津駅から榊原温泉口駅までほぼ全区間複線の新線に切り替えられることになり、当トンネルをはじめとする新トンネル(総谷トンネルも新総谷トンネル=353mを建設し線路を移設)の完成により、近鉄大阪線は全線複線となった。
新青山トンネルの開通は、この区間における安全かつ高速・大量かつ効率的な旅客輸送を可能とし、乗客の利便性向上や特急列車の競争力向上など多くの恩恵をもたらしている。さらにこのトンネルの開通により、当時の日本の大手私鉄の山岳トンネル最長記録が更新された(開通以前は西武秩父線の正丸トンネルが日本の大手私鉄最長)。
[編集] 特徴
トンネル内部は、完全な直線となっており、また西青山駅から東青山駅へ向かって22パーミルの下り勾配となっている。また、東側に隣接する垣内トンネルを含め全長7kmに及ぶロングレールが敷かれている。
架線にはコンパウンドカテナリー式剛体架線を採用しており、トロリ線の断線を防いでいる。この剛体架線は近鉄独自のもので、通常の剛体架線と異なり、たわみに対応するため高速走行も可能となっており、上り勾配方向(大阪・京都行き)の一部の特急列車で130km/h運転も実施されている(伊勢・名古屋方向へ向かう列車は下り勾配による制動距離の関係で105km/hに制限されている)。また、新青山トンネル以外の大阪線のトンネルでもこの方式の架線が広く採用されている。なお、通常の架線との切り替え地点は架線柱の間隔が短くなっているのが特徴である。
トンネル坑口の上には、完成当時の会長(着工時の社長)である佐伯勇の揮毫による「徳不孤」の扁額が掲げられている。これは論語の一節「子曰徳不孤必有鄰」(意:孔子いわく、徳のある人物は孤独ということはない、必ず仲間がいるものだ。)に由来するものであり、この一節を「単線では決して立派な鉄道とは言えない。複線であってこそ立派だと言えるのだ。」と読み替え、大阪線複線化事業の完成を祝う思いが込められている。
この他、トンネル西坑口(上本町起点84.048km地点)が大阪輸送統括部(旧・上本町営業局と天王寺営業局)と名古屋輸送統括部(旧・名古屋営業局)の区界となっており、また三重県伊賀地方と伊勢地方の境目(布引山地)でもあるなど、地理的にも大阪と名古屋の中間点といえる場所にある。実際、大阪・難波と名古屋を同時に発車した名阪甲特急は、このトンネルの前後ですれ違うダイヤとなっている。