新発田長敦
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新発田 長敦(しばた ながあつ、1538年(天文7年) - 1580年(天正8年))は戦国時代、安土桃山時代の越後国の武将。新発田綱貞の嫡男。上杉氏の家臣。新発田重家の兄。妹は色部長実の正室。尾張守。通称、源次郎。新発田城城主。
[編集] 略歴
長尾晴景-景虎(上杉謙信)に仕え、七手組大将の一人として、本庄繁長、色部亨長、中条藤資、加地春綱、竹俣清綱、柿崎景家らと並び称された武将であった。
外交手腕に優れ、上条の乱での上条方国人の晴景方帰参に尽力するなど、越後の国人統率に尽力した。上杉謙信没後は上杉景勝に仕え、御館の乱でも景勝を支持し、武田勝頼との和議を締結するなど外交手腕を発揮し、弟の重家(当時、五十公野治長)とともに活躍した。しかし、戦後は、上杉家内部の混乱もあり、十分な恩賞を得られないまま不遇のうちに病没した。
新発田家は長敦の弟の五十公野治長が新発田姓に戻った上に重家と改名して継いだ。