柿崎景家
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柿崎 景家(かきざき かげいえ)は、戦国時代の越後国(新潟県)の戦国大名である長尾氏(上杉氏)の家臣。柿崎城主・猿毛城主でもある。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 永正10年(1513年)? | |||
死没 | 天正3年(1575年)? | |||
別名 | 弥次郎(通称) | |||
墓所 | 新潟県上越市柿崎区の楞巌寺 | |||
官位 | 和泉守 | |||
主君 | 長尾為景→晴景→上杉謙信 | |||
氏族 | 柿崎氏 | |||
父母 | 父:柿崎利家 | |||
子 | 憲家、晴家、祐家 |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 長尾氏時代
永正10年(1513年)、越後の国人である柿崎利家の子として生まれる(生年には異説もある)。
はじめ長尾為景に仕え、為景没後は長尾晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持している。
[編集] 上杉謙信時代
謙信のもとでは先手組300騎の大将として重用され、永禄元年(1558年)に春日山城の留守居役を務めている。永禄4年(1561年)の小田原の後北条氏攻めにも参加し、直後の甲斐(山梨県)武田氏との第4回川中島の戦いでは先鋒を務め、八幡原の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込んだ。
このように武勇に関する逸話は数多くあるが、景家は武勇一辺倒の武将ではなく、斎藤朝信と共に奉行にも任じられ、上杉領内の諸役免除などの重要政務、元亀元年(1570年)の北条氏康との同盟締結で功績を挙げ、子の晴家を人質として小田原城へ送っているなど、政務面でも活躍している。
[編集] 最期
死因については謎が多い。「景勝公一代略記」という史書によると、景家は天正3年(1575年)12月に謙信に従って越中水島に先手三百騎の大将として出陣していたが、ここで織田信長と内通しているという噂が流れ出し、そしてその噂を信じた謙信によって死罪に処されたという。享年63。
ただし、子の晴家は謀反の罪に関わらずに連座で処罰されていない点、また天正3年の段階では越後と織田氏との間はまだ決定的な敵対状況ではない点や、さらに信任厚い景家をその程度のことで謙信が殺すかどうか信憑性に欠けているため、この説は疑問も多い。さらにいえば、長男の晴家は御館の乱で上杉景虎を支持して景勝と敵対したため、上杉景勝の史書にその父である景家を貶めるような記述があっても不思議ではない。ちなみに同じく子で晴家の兄弟の憲家は御館の乱で景勝を支持し、柿崎氏を存続をさせている。 墓所の楞巌寺には天正2年に病死と伝わる。
墓所:新潟県上越市柿崎区の楞巌寺、景家夫妻を描いた肖像も所蔵されている。
[編集] 人物・逸話
- 史書によると、謙信は「和泉にして分別あらば、七郡中手に合う者有るまじ」と評したという。
- 勇将揃いの上杉軍でも有数の武将であり、上杉軍の戦いでは常に先鋒を務め、彼の名を聞いただけで敵は逃げ出したともされている。
- 謙信が若いときに敵将の娘である伊勢姫と恋仲になったと聞き、抗議し関係を絶たせた。伊勢姫はその後出家し自決した。これがきっかけとなり、謙信は生涯妻を娶ることはなかったとされている。
- 川中島の戦いでは武田軍本隊を壊滅寸前に追い込んだ。山本勘助を討ったのは景家であるという説がある。
- 死罪の元となった信長内通疑惑の顛末は、景家が不要な馬を交流の有った上方の馬市に売りに出したところ「越後の馬は上質である」との理由で信長が高値でその馬を買い取り、贈品と共に礼状を送る。景家はこれらの事を謙信に報告していなかった為に景家が直接信長に売ったと思われ、謙信は景家が内通していると疑った為と言われている。