手伝普請
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手伝普請(てつだいぶしん)は、豊臣政権や江戸幕府が諸大名に命じて行わせた大規模な土木建築工事のことである。近世の統一政権の成立が前提となる。
[編集] 豊臣政権
大坂城、聚楽第、方広寺大仏殿、肥前国の名護屋城、伏見城などが築城・造営された。諸大名の主たる負担は人足の提供であり、資材を供出することもあった。実際に現場に出た人足たちには扶持米を支給しなければならなかった。また、賦課基準となったのは石高である。
文禄・慶長の役の軍事的な負担とともに、諸大名の財政を逼迫させることになった。
[編集] 江戸幕府
江戸城下町建設のために、千石夫(役高1000石につき1人の人足)を徴発したことに始まる。その後、江戸城、彦根城、篠山城、丹波亀山城、駿府城、名古屋城、高田城などの築城が続き、大名が普請に動員された。
江戸時代初期の諸大名は、幕府の普請動員に応えるために、自らの領内の支配体制を整える必要があった。将軍が諸大名に対して強大な権力を誇示したように、藩内においては藩主自らを頂点とした体制を固めさせられることになったのである(「藩体制の成立」と呼ばれる)。家老・一族と藩主との権力闘争は軋轢を生み、多くの御家騒動を引き起こした。また、外様大名は手伝普請に動員されることを通じて、幕府の軍役体系に組み込まれていった。
江戸時代中期になると、河川の普請が多く行われるようになった。宝永の大和川改修工事、寛保の関東水損地域の河川・堤防改修工事、薩摩藩による宝暦期の木曾川・長良川・揖斐川の治水工事(宝暦治水事件)などが有名である。
築城・治水の他に手伝普請の対象となったのは、日光山の諸社、徳川家の菩提寺である寛永寺・増上寺、将軍および家族の霊廟、禁裏・御所などの造営・修復である。
江戸時代の初期には、各藩が費用を負担し、実際に藩が取り仕切って普請が行われていた。しかし、時代が下るにしたがって、落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり、さらには金納化も進行した。そして、安永4年(1775年)以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には、各藩は費用を負担するだけとなり、幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった。
江戸時代の手伝普請も各藩の負担は過重であり、藩の財政を逼迫させる要因のひとつとなった。ただし、他の課役・重職を担っている藩には、手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では、尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩、老中などの要職在任中の藩、溜間詰の大名、長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた。