戸田氏成
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 万治2年(1659年) | |||
死没 | 享保4年5月3日(1719年6月20日) | |||
別名 | 長三郎(幼名)、弾正(通称) | |||
墓所 | 東京都文京区向丘の蓮光寺 | |||
官位 | 従五位下、淡路守 | |||
藩 | 美濃大垣新田藩主(三河畑村藩主) | |||
氏族 | 戸田氏 | |||
父母 | 父:戸田氏西、母:内藤忠政の娘 養父:戸田氏利 |
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兄弟 | 戸田氏定、戸田氏成 | |||
妻 | 正室:牧野成貞の養女(小谷守栄の娘) | |||
子 | 娘(戸田忠胤正室) 養子:戸田氏房、遠藤胤親 |
戸田 氏成(とだ うじしげ)は、美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の初代藩主。大垣藩戸田家分家初代。浅野長矩の従弟にあたる。
万治2年(1659年)、美濃大垣藩の第3代藩主・戸田氏西の次男として生まれる。貞享元年(1684年)に分家で7000石を領する大身旗本の戸田氏利の養子となる。貞享5年(1688年)7月10日に家督を継いで旗本となる。このとき、兄の戸田氏定から新田3,000石を分与されて1万石の大名となって諸侯に列したため、大垣新田藩の藩祖となった。
元禄14年(1701年)3月、従兄の浅野長矩が吉良上野介を斬りつけたため、縁戚による連座処分により6月まで出仕停止処分に処された。10月、従五位下、淡路守に叙位・任官する。正徳3年(1713年)には倹約令を出して元禄文化による華美な文化の抑制、苦しくなる藩財政の再建に務めた。のちに1万3,000石の大名となる。
享保4年(1719年)5月3日に死去。享年61。後を養子の戸田氏房が継いだ。
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