愛新覚羅奕キン
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愛新覚羅 奕訢(あいしんかくら えききん、1833年1月11日 - 1898年5月29日)は、道光帝の第6子。恭親王。母は孝静成皇后。諡は忠。
幼い頃から聡明で、刀槍、詩歌と文武に優れ、道光帝の生前、後継者の有力候補と見られていた。しかし、道光帝は第4子の奕詝の方が優しさがあるとして後継者に定めたため、1850年に奕詝が咸豊帝として即位し、奕訢は恭親王に封ぜられた。咸豊帝の治世には軍機大臣、都統、内大臣などを歴任するが、帝に避けられることもあった。アロー戦争中の1860年、イギリス軍が北京に迫ると、北京条約の調印、ついで総理各国事務衙門の設立に携わった。屈辱的な不平等条約の締結当事者となったため、排外主義者からは「鬼子六」(洋鬼子(すなわち西洋の化け物)とつるむ六男坊)というひどいあだ名をつけられた。
1861年の咸豊帝の死後、西太后・東太后と結んでクーデターを起こし、怡親王載垣、鄭親王端華、粛順らを除去し、宮廷内の権力を握った(辛酉政変)。奕訢は議政王として軍機処の大臣を兼ね、李鴻章・曽国藩などの漢族官僚を起用して同治中興を実現した。1865年に西太后の勘気に触れ失脚するが、間もなく復帰。1884年、清仏戦争が起こると敗戦の責任を被され、西太后によって罷免された。1894年日清戦争の敗戦後、総理各国事務衙門と総理海軍を命ぜられて外交と軍務を統括し、さらに軍機大臣に復職して国難に当たったが、1898年に病死した。