小笠原忠脩
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小笠原 忠脩(おがさわら ただなが、1594年(文禄3年) - 1615年6月3日(元和元年5月7日))は、江戸時代前期の武将。父は小笠原秀政。母は徳川信康の娘。正室は本多忠政の娘・亀姫。官位は信濃守。小笠原忠真の兄に当たる。娘に齢昭院(蜂須賀忠英室)。
幼名は幸松丸。元服のとき、第2代将軍・徳川秀忠から「忠」の字をもらって忠脩と名乗った。母は信康の娘であるから、忠脩は徳川家康の曾孫に当たる。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では小笠原軍を率いて出陣した。このときの出陣で、小笠原軍は軍費に窮し、困り果てたと言われている。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では父が小笠原軍を率いて出陣した。このとき、忠脩は松本城の守備を任されていたが、幕府に無断で出陣し、父と合流した。これは一つ間違えれば、家康の曾孫といえども許される行為ではないが、家康は処罰も恐れずに出陣してきた忠脩の勇気と決断力を大いに評価し、従軍を許したという。そして天王寺・岡山の戦いで父と共に豊臣軍と戦って、敗れて戦死した。享年22。墓所は信濃国浅間の法性寺。